盗作2021


夏。

 肌に刺さるような光の中で、私は知らない道を歩いていた。
「もう一本遅いバスで来ればよかった」と嘆く声も出ないくらい、とても暑い夏だった。気温は、優に体温を超えているだろう。ぱっと頭に浮かんだ数字にますます辟易する。熱を持った黒シャツの中で汗が滲み、ゆっくりと撫でるように弧を描いて落ちていった。
 空気は重く、息苦しい。空のずっと向こうまで聞かせるような蝉の声、遠くに揺らいで見える坂道、すれ違う人の甘ったるい香水と体液の混ざった香り。私の中にあるすべての感覚を、夏が追いつく間もなく攫っていく。その清々しいとも言える勢いに薙ぎ倒されないように、ただ私は私を保つ事で精いっぱいだった。
 ぼやけていく内側の感覚。纏わり付く空気に呑まれていく外側の身体たち。境界が曖昧になり、芯の深いところにある生を明々に自覚させられてしまう。

 私は、この季節が嫌いだった。



駅。

 平日だからか人のまばらな大通りを進むと、駅が見えた。時間は正午をとうにまわり、立ち並ぶ店には空席が目立っていた。
 人の流れに歩調を合わせていると、常に思うことがある。それは、彼らはみなそれぞれの目的地を目指している、ということだ。現に私もそうだ。ライブというものがあって、それを見に行くために手段を選び、自分の足で歩いている。前を歩く人はどうだろう。家族の待つ家路につくのだろうか、それとも、これから仕事に向かうのだろうか。靴の音は一定の早さで地面を叩き、どちらなのか知る由もないことを物語っている。
 次第にその靴は、俯き気味に歩く私の視界から消え、街の喧騒の中に踏み入って、交ざり、一つになっていった。私は、後ろ姿しか知らないその人と目的が違えたことに小さく安堵した。
 他者との同調や協調は、私にとっては苦痛でしかなく、こうして人並み揃えて歩くことがうまくできなかった。自分は自分、他人は他人という考えは、ずっと昔から変わっていないように思う。最近になって漸く、そんな自分を許せるようになった。
 
 規則的に動く何本もの足が、幾度となく跡を残して、何度も、何歩でも地面を鳴らしていく。耳の奥深くまで届く自分の靴音だけが特別に感じ、まるでゆっくりとした心臓の鼓動を聞いているかのような心地が、足元に柔らかく広がっていた。


人。

 会場は仙台駅から1駅分程離れたところにある。隣にはホテルが併設しており、最寄り駅はすぐ向かい側にあるため、利便性にはかなり優れた場所だ。かと言って建物ばかりなだけでなく、線路を挟んで向かい側には広い公園がある。春には沢山の桜が咲き、丁度夏の今頃には緑の並んだ広場の中央に、シンボルのように聳えた噴水のシャワーの中で、子供たちが水遊びする光景を見るだろう。
 私が仙台駅についた頃、ライブグッズの物販はすでに始まっていて、SNS上には炎天下の中、列に並ぶ人々の鬱憤と期待が交互に流れていた。赤信号を待つ間その1つひとつを眺めては、自分の中にはない大きな感情の波が寄せては返しているようだなと思った。防波堤に打ち付けるたび、白い泡と黒い水が強く弾けて散っている。引きずり込まれる波の恐怖が脳裏を過り、すぐに画面をオフにした。SNSを始めてからこういうことを度々感じるようになり、私はその大きな動きにいつまでも足元を掬われ続けている。いつかきっと自分もこの渦に囚われてしまうのだろうと考える間に、信号は青になっていた。
 
 駅から会場までの道は、ライブのTシャツやグッズに纏った人で溢れていた。この日のために着ていく服を選び、何を持っていくのか悩んだり、誰かとの待ち合わせ場所へ時間やルートを記した画面とにらめっこしながら、ここまで足を運んだのだろう。その苦労や興奮さえも、夏の茹だるような暑さの前では歯が立たなくなっているのが表情から見て取れた。
 それでも自分の目的を果たすこと(ライブを観ること)と、自分の好きな感情を外側に表出することに必死になっている彼らを見て、少し懐かしく思った。

 いつからだったろう。気がついたら自分の中の熱量や好奇心、希望は他の対象に向かなくなった。好きな漫画やアニメもある。好きな音楽もある。(今もその好きな音楽を聞くためにここにいる。)好きな小説や映画や友人がいる。ただそれらは人から見た私のイメージを形を作るだけの"モノ"でしかなく、「好き」という感情だけが燻っている箱の中で私だけが独り、取り残されているようだった。
 次第に私は本当にそれらが好きなのか、なぜ好きなのか理由を探したり、限られた箱の狭い場所で藻掻き始めたりした。好きの対象をコロコロと変え、新しいものに触れてみては熱すぎて手を引っ込めることもよくあった。「好き」という見えない感情を形にしようと絵を書いたり、言葉にしたり、言動が全てを表現できると信じきって、それに必死に縋っていた。私を隠すこの箱を開けてくれる誰かを、ずっと待ち続けていたような気もした。
 年を経るにつれ、箱の蓋は錆びついて周りと同化し、内側から開けることも、外側から開けてもらうこともなく、諦念の影にゆるく収まっている。
「好きなものがあるのは良いことだね。」
誰かからそう言われたことを思い出す。その「好き」の意味合いや対象が箱の中で徐々に変化していったことを、箱の外側ばかり見ていた他人には知る由もない。足掻いた結果として取捨選択された好きなモノたちと、それを通して他人や自分、社会と交流するための手段だった絵を書くことだけが残り、まだ自分の中に折り合いのつかないまま時間だけが過ぎている。



場。

 ようやく目的地に着いたとき、目の前には開場を待ちわびる人だかりが幾つもできていた。少しでも早く会場に入ろうと綺麗に引かれた五線譜のように並ぶ行列、建物の影に座って降り注ぐ光をぼぅっと眺める人々、暑さの中でも寄り添って写真を撮る男女。それぞれ過ごし方は違っても、目的や好きなモノが共通している事で成り立つ一体感が、じわじわと身体に染み込んでくる。
「ヨルシカ」「n-bunaさん」「盗作」「カプチーノ」…
 苦手な人混みの中、聞こえてくる耳馴染みの深い単語に救われる。緊張はゆっくりと寛解し、喧騒から少しずつ遠ざかって19時の開始に向けて刻まれる時計の針の音が、次第に大きくなっていった。



時。

 なぜヨルシカ好きになったのだろうか。
 すでに上記に記載した「好き」の語りの中で、理由を求めていた私の姿がある。席で開始のブザーを待つ間にしばらくその事を懐古していた。
 初めて知ったきっかけは、YouTubeのオススメ欄に流れた「靴の花火」だった。その頃私は、音楽と、アニメやドラマのような映像が付随した作品(所謂MV)の存在を知ったばかりだった。初めて「靴の花火」を聞いたとき、主人公の主観が自分と近い感覚をもっていると思った。また、揺れる木の葉と並ぶ本棚、落ち着いたワンピースに包まれた女の子の映像に、自然と心が惹かれていた。題材となっていたよだかの星は、ついこの間読んだばかりだった。
 バンドの名前は全く知らない、けれどこの曲と映像にゆるく袖を引かれているようだった。知りたいと思った。その欲求と心の安らぎだけで気がついたらここまで来ていたような気がする。
 あれからバンド自体は数百人しか見ていなかったYouTubeライブから、数千数万人規模のライブへと変化していった。再生回数は急速に増して、今や日本人の人口近くになっている。
 昔から応援していた人が人気になると、何故か離れてしまう。人の集まるところに積極的に飛び込んだりすることは、自分にとって気の進まないことだった。それでもいつまでも、初めて見たあの頃と変わらず惹かれていることに素直に嬉しく思って、そう思える自分がいることにも安心感を覚えた。それが許されるバンドだとも思った。歌詞は人を突き放すようだのに、多くの人の心を掴んで離さないのはとても不思議だった。
 その不思議に満ちた彼らが目の前に現れる瞬間が刻一刻と近づく会場を、映し出された青いスクリーンがそっと照らしていた。


音。

 小さい頃から、大きな音が苦手だった。
 花火は綺麗だ。そのきらきらした光の後にくる、地面を突き上げて揺らすようなドンッという音が怖かった。休み時間の教室や屋台の並ぶ祭りよりも、静かな図書室や喫茶店が好きだった。そもそも絵を好きになったのも、声という音を出さなくて済むからだと思う。そのくらいに私は、静寂に固執している。
 音を楽しむと書く音楽に触れるようになったのも、何故なのかはっきりとは分からない。聞いていく内に好きになるのは大抵、掻き鳴らすような激しいものより、ゆっくりと瞼を閉じて眠るようなエレクトロニカやポップスだった。そもそもドラムやギターの技巧の光るヨルシカに対して惹かれた理由でさえ、楽器の奏でる音にではなく、繊細な映像と歌詞にあったのだと、ここ最近になってはっきり自覚した。
 そんな自分にライブの音は激しく大きく響き、開始とともに身体の芯から這うように硬直していくのを感じていた。バックに映る夏の映像だけが、静寂を求める私にとって唯一救いだった。曲が終わるごとに周りから拍手が響いたが、私は指の1本も動かせず、ただただ音に圧倒されて縛られたようにじっと座っていた。周りの音の大きさに流されるように自分も音を出したら、一瞬で何かが壊れてしまうような危うさが、この作品にはある。その瀬戸際に自分はいるような気がして、壊さないように、壊さないようにと繰り返し祈っていた。自分を保つことさえままならなかった。浅い呼吸と波打つ脈、自分の感覚が戻ってきたときには、すでにライブは終盤に入る頃だった。
 ふいに会場にいる誰より、この音を楽しめていないような気分が押し寄せる。劣等感に苛まれる私を他所に、suisさんは只管思いを歌にのせて届けてくれるし、n-bunaさんは気分の最高潮にいるように激しくギターを弾いていた。私はその姿を見ているだけでよかったし、私から彼らに届けたいものもなかった。そのくらいにヨルシカの音楽は完全に空気を包んで、自分のことさえ忘れそうになった。

 ライトに照らされて、聞き馴染みのある音楽を生み出す彼らが、夏の日差しよりも一層眩しく感じられた。


夜。

 星が綺麗な夜だった。ライブは温かい拍手に包まれながら静かに終わり、あんなに集まっていた声も音も惜しむように後を引きながら、とっぷりと闇に沈んでいった。昼に買ったカプチーノが鞄の中でぬるくなっている事に気づき、時間が流れたことを図らずも伝えてくれた。外を出ると日中のほとぼりが街灯の光を縫って、沈黙を破ることなく横たわっている。その間を高さのある踵で踏みしめ、トントンと弾むような音を立てて進む。家路はまだまだ先に続いていた。
 目蓋を閉じれば明るいステージやライトがちらついて、耳の奥にはまだあの低音や声の欠片が重なり、遠くの方で鳴っている。私の記憶はあの時間だけ切り取られ、まるで過ぎ去ったかのような顔をしているが、身体にはしっかりと刻まれていた。心地よかった。

 なんでも終わりが好きだ。テストが終わった後、映画が終わった後、日が暮れた後。正確にいえば、終わりに残るふわふわと浮き立つような気持ちや余韻が好きだった。始まりにはいつも期待の中に不安が付き纏う。不安は人の言動を起こす力にも、諦めさせる要因にもなる。それらが和らぐこの時間は、穏やかでとても優しかった。
 スマホの画面には、次の新しい曲が世に出始めたお知らせが流れていた。終わりがあって、また始まる。当たり前のことに少し寂しくなるのは、それだけ終わっていくものの良さを分かっているからだと思う。

 ライブの良さも、自分には受け入れられなかった感覚もしっかりと感じることができた。感じたことは目に見えない。だからこそ見える形で残したいと思った。私の中に永遠に留めておけば、すぐに慣れて徐々に薄れてしまう。思い出は、たとえ褪せていようと思い出すことで思い出になる、ときいた。どうせ思い出すなら色鮮やかでいたい。こうして文字にすることが、私には適当だった。気づけばすでに5000字近くなっている。文には区切りこそあるが、まとまりはない。感じたままを写し取るようにつらつら弾いている。

 いつかまた読み返して、あの夏の夜にそっと帰れるように。


 2021.8.3 夏虫の鳴く夕暮れにて。