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百万円と苦虫女は教えてくれる。人と関わらずに生きていける人生などないことを。
今日は私の大好きな映画、「百万円と苦虫女」の話をしようと思います。
百万円と苦虫女は、2008年に公開されたタナダユキ監督による作品です。
簡単にあらすじから。
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鈴子は、自分の意見をはっきりと伝えられず、流れされるままに生きている、つかみどころのない女性。あることをきっかけに前科者になった彼女は、名門私立中学の受験を控えている弟を気遣い実家を離れることを決意します。
「100万円たまるごとに引っ越しをする」という自分ルールのもと、住む場所を転々とする鈴子が、移り住んだ街で出会った人々との交流を通して、「人生について、自分について」緩やかに気づきを得ていく物語です。
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前科者になった鈴子は、住んでいた実家のマンションの住民たちには、優秀な弟と比較され劣等生のレッテルを貼られ、街で出くわした元同級生には「前科者のくせにこんなところでなにやってるの?うけるーww」とからかわれ、罵られます。
一度ついたレッテルを剥がすのは難しく、家族にも迷惑がかかると思った鈴子は、逃げるように地元を去り、その後も100万円たまるごとに住む土地を点々とすることで、人と深く関わりを持つことを避けるように生きていきます。
しかし3つ目に移り住んだ街のバイト先であるホームセンターで、同い年の青年・中島と出会ったことでその決意は揺らぎます。
中島くんは、鈴子と同じように、好きでもない職場の仲間たちとの交流を面倒くさいと思っているごくごく普通の青年。
だけど鈴子と違って、そのめんどくささをうまく隠して、相手を不快にさせることなく器用に生きることができるのです。
人の失敗を責めることを生きがいにしているような意地悪な上司の存在を受け流す術を持ち、
めんどくさい飲み会も、参加はするけど疲れないタイミングでうまく抜け出す術を持つ。
人との距離の取り方が上手な中島くんは鈴子の警戒心をも解いてゆきます。
これまでに暮らした2つの街でも、心を寄せてくる男性や優しく接してくれる人はいたのに、その誰にも自分の100万円ルールを話すことなどなかった。それなのになぜか出会って間もない中島くんにはあっさりとその話をしてしまうのです。
中島くんは聞きます。
「それって自分探しみたいなやつですか?」
鈴子は答えます。
「いや、むしろ探したくないんです。どうやったって自分の行動で自分は生きていかなきゃいけないですから。探さなくたっていやでもここにいますから。」
この時点で鈴子は気づきつつあるのです。
逃げても逃げても自分はついてくるし、生きていくうえで人と関わることは避けられないことを。
そしてその気づきは中島くんとの交流の中でさらに色濃いものになってゆきます。
鈴子のその気づきはやがて確信に変わり、そしてこの逃げ続ける生活に終止符を打つ決断をするラストシーンにつながっていきます。
私は、この映画を見るたびに、雪国の小さな田舎町で「●●さん家のゆいちゃん」という肩書きに縛られ、良い子の自分を演じ続けることに息苦しさを感じていた、中学生の頃の私を思い出します。
どこか遠く、誰も私のことを知らない街で、今の私とは別人のような私で生きてみたい。
この場所にいることが私を縛り、苦しめていると思い込んでいたあの日々を。
けれどこの映画は教えてくれます。
どこへ行っても自分は自分。
住む場所を変えただけで何かが劇的に変わることなどないし、自分ではない何者かに生まれ変わることなどできないと。
まっさらな自分のままでいられる場所などどこにもないからです。
人は人と関わって生きていく生き物で、どこに住んでも時が流れれば、その場所にまた自分像は出来上がる。
自分を変えたければ、自分が変わるしかないのだと。