見出し画像

大工さん五十余年木造住宅だけじゃない

R6年1月10日
 記事のエリアに人生の記録など書いてもいいのかと思いながら、
でも誰かが見てくれたらと思います。
今年72歳の私は昭和42年職業訓練所(建築大工科)に入所した。
当時高校受験する同級生は全体の60%くらいだったと思いますが私のように家庭の事情で進学を諦めなければならなかった同級生も何人もいた時代でした、「高校進学しなくても建築士・技能士の資格は取れるから大工になって勉強したらどうか」と担任の先生から訓練所を勧められたのです。
 県立訓練所は1年間授業料が無料なので通所電車代だけで通えると親を説得してくれたのです。
 入所して見たら同じ境遇の仲間が何人もいてお互い仲良く、またライバル意識をもって訓練に励んだものでした。
今でも当時の仲間とは仕事面でもプライバシーでもお付き合いがあるのは人生プラスの面であることはまちがいありませんでした。
そして昭和43年4月に地元工務店に就職(弟子入り)しました。
 今日はここまでにします、人生修行の始まりでした。

R6年1月12日
 就職(弟子入り)してわかったこと
会社(親方宅の職人部屋)に住み込み・3食付き、しかも6畳に兄弟子が3人自分を入れて4人が布団を並べての毎日が始まった。
まずは雑役が朝仕事6時起床・風呂の薪割り・朝食・通勤の大工職人にお茶出しなど朝は忙しい、7時半に現場へ出勤・到着次第に仕事が始まる。
 現場は商品なので先輩の指導は厳しい上に訓練校で習った仕事などさせてもらえない、雑役と完成時に見えなくなる部分の工程(床・壁の下地止・掃除・10時3時のお茶出し・工具片付け)が見習いの仕事なのです。
 昼休みは自分の道具の手入れなど1日が結構忙しく午後6時まで仕事をして、現場の片付け掃除を、会社に帰ると6時半過ぎ(現場が遠いときはもっと遅くなる)もちろん残業手当などありません。
 そして給料は3か月までは手取り3,000円、4か月目からは5,000円が1年間当時17歳の自分には足りなかった思い出が懐かしく?・・・
想いいだされます。
 ちなみに当時中学卒業の女子の初任給は19,000円と聞いて羨ましく思ったことも・・・
 休日は1ヶ月に2日、第一第三日曜日それも前日にならないとわからないなど今から考えるとずいぶんハードな労働環境だったことが普通でした。
 この頃住宅建築・建て替え等仕事は忙しかったのですがこの地方では冬に向かう年末になると大工仕事は全くなくなるので職人たちは雪の降らない関東地方に出稼ぎに行くのが普通でした、入社したばかりの私は地元に残って雑役・屋根の雪下ろし等の重労働の3か月、今になれば大変だったけれど懐かしくおもいだされます。
 いつになったら大工仕事ができるのか心配になったものです。

この次は大工仕事と現場施主さんとのふれあいを回想します。

R6年1月14日
 大工見習いも2年目くらいになると押入れの造作を任されるようになるので少し達成感のある気分になった。
 でもまだ兄弟子が何人もいるので和室の造作材には触らせてもらえないが構造材の刻みやカンナ削りなどは訓練校での練習が役立ってそこそこできるようになってくる、ようやく大工仕事に参加させてもらえる。
 休憩時間も先輩の話に入れるようになり、施主さんがお茶を出してくれる現場もあり少し余裕も感じられるようになった。
 増築・リフォームの現場ではたいてい施主さんのお年寄りがお茶を出してくれるので(当時は現在のような核家族は少なかった)世間話や大人の会話を聞いたものでした、冗談と思うけど施主さんのおばあちゃんから婿の世話をしてやろうかなどと言われてドギマギしたりと懐かしく想いだされます。
 18歳になると車の免許が欲しくなり仕事が終わってから自動車学校に行くのに給料をほとんどつぎこみ何とか合格し嬉しかった。
 ほしい大工道具もあったのでこずかいはかなり制限されたのでした(大工道具は自分持ち)ですから・・・

 次回は木造住宅の現場ではない箱物といわれるコンクリート造・鉄骨造の木工事現場についてお話しします。


R6年1月16日
 ある程度仕事ができるようになり車の免許があることで先輩職人の送迎を兼ねて大きな現場に入ることになった、当時年配の大工さんたちは車の免許がない人が多かったのですね。
 箱物と言われる鉄筋コンクリート造の建物の木工事(このころは内部造作の建具枠ドアー引き戸等の木枠・天井張り・内部の間仕切り)木製でしたから仕事量は多かったのです、しかも現場に木工機械を持ち込んで荒木材から加工する係と取り付けする大工と墨出しと言って図面から取り付け位置を設定する仕事など、木造住宅とはまったく違う工程なのです。
 私はいつも施工図面を見て荒木材から加工する仕事と墨出しを担当させられ、下ごしらえばかりでいつになったら先輩のように取り付けができる大工になれるのか不安になったものです。
 このようなはたから見たら大工仕事に見えない作業での経験が後で大きく人生に役立つとはその時はわかりませんでした。
 次回は一人親方として独立しなければならなかったことを書きたいと思います。


R6年1月18日
 それは24歳の晩秋でした、私の家の本家(専業米農家)が水田の造成のため杉の木300本以上を伐採したのですが、これを使って住宅を新築することになったのです。
 ところが本家は私の勤めている会社の社長(親方)には担当してもらいたくないと私に言ってきたのです、しかも翌年の春(雪融け)から工事着工したいと、そうなると当然私は退職して工事を請け負うしかありませんでした。
 建築士(2級)の資格も取れたばかりなのに初めての住宅プラン作成・設計図面・申請図面の作成・工事見積り、さらに伐採した杉丸太材の木(き)積(づも)り(伐採現場で製材前に材料の振り分け長さの切断)
をしなければならない、丸太の直径から必要材料の寸法になるように切断して製材工場に運搬の段取りとあっという間に年末になったのですが、できた図面は80坪の農家住宅そしてこの地方伝統の形態 せいがい造り(軒先が1.2m以上出て外壁を守る大屋根)となったのです。

立面図・当時の手書き図面 

退社して業者登録・設計事務所登録など工事着手の準備はできたのですがとても私一人では下請け業者の手配・加工・建て方・造作などできるわけはない・・・かなりのプレッシャーに押しつぶされそうになりながら試行錯誤、一人親方事業主の始まりです。
 
 次回は木材加工・建て方・上棟式のことを回想します。

R6年1月19日
 
 本家の親父さんのこだわり自分の山(杉林)の材料で住宅を新築するに自ら手を挙げた自分を今考えると無謀だったかと思わなくもないですが・・・
年末には製材工場に運んだ杉丸太やケヤキ丸太の製材が始まり工事がスタートしていました。
木材加工が始まるまで3か月、そして同級生で親しい友人に二人なら9ヶ月くらいかかるけど一緒にやらないかと声をかけてみたのです、図面を見せたら「自分も将来独立を考えている」からと一緒にやってくれることになり何とかスタート。
二人の担当を決めて墨付け・刻み・加工とスムースに建前(建て方)の準備はできました、建て方は二日間・クレーン・鳶職人・応援の大工さん6人を準備していよいよ建て方一日目が始まったのです、ところが2階構造材を掛けるとき友人が転落したのです。
救急車で搬送される友人、棟梁として現場を納めなければならない私は友人の怪我のことも心配でしたがまずは上棟に向けて作業を進めることになったのです。
 夕方病院に行くと友人の怪我は全治1か月とのことでした。
建て方作業は二日目、せいがい造りとなると建て方作業だけでなく軒裏の天井など造作部分もあるので屋根の完成は夕方近くになります、そして上棟式の準備・屋根祭り・福餅散布となります。
町内の人たちが集まってくれて完成した屋根の上から福餅をまく
 この地方のお祝い儀式など、棟梁としての初めての経験でした、
怪我をしてしまった友人(副棟梁)と共にできなかったのはまことに残念でした。
 その後は本家の親戚縁者で上棟式宴会となり、当時まだお酒の弱い私は大変だったこと、(今では大丈夫)何とか務めあげたことが懐かしく、また応援の職人さんたちの目を見張る仕事ぶりに感心したものでしたさすがに一人親方の大工だと、その後皆さんとは長くお付き合いすることになったのも大きな収穫でした。
 まずは上棟で一区切り、土壁をつけるため現場を左官工事に預けて私は造作材の加工のための準備やら、応援のお返し応援やらで1ヶ月あまり経過し、友人も現場復帰できるようになり内部造作の始まりとなりました。
 
次回は現場の協力会社・施主さん(本家の人たち)とのことを回想します。


R6年1月26日  投稿の間を空けてしまいました。
 住宅は大工だけでは出来ません、多くの職人が仕事をして
完成します。
 解体工事・基礎工事・木造大工工事・屋根瓦工事・板金工事・左官工事・配管工事・電気工事・塗装工事・内装工事・建具工事・ サッシ等金属製建具工事・畳工事・住宅設備工事などいくつもの工程があって完成となるのですが、職種がスムースに現場に入れるようにするのが当時の棟梁の段取りの腕前にかかっているのです。
 新人棟梁の私は毎晩のように駆けずり回り段取りをしたものでした。
 本家の家は造作材をほとんど自前の杉材等で作るという約束なので切り出した杉丸太から素性の良いところを造作材として製材しておいたのですが、それを加工するために初めてローンを組んで加工機械を買った、嬉しかった、新品の加工機を使い和室造作をはじめほとんどの造作材を加工したのです、この時箱物現場での下ごしらえの経験がよみがえったのでした。
 施主さんの希望で変更箇所・または子供さんたちの要望などを休憩時間に話し合うのも楽しい仕事でした。
 小学生の末っ子の男の子が「大工さん体育館も作ってよ!」には
本家の親父さんも笑いながら困っていたものでした。
 そして11月初めに住宅は完成したのです。
 
完成から50年ですが2004年の中越地震 震度7にも耐え、1月1日の能登半島地震 震度5強にも床の間の壁に少しの歪みくらいで現在も顕在です。
 
次回は箱物の現場(学校・病院・役所・体育館)などの回想です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?