我々は主の価値も知りえない不可知的認識の存在
哲学ではイデア論というのがあり
そしてカントという人は現代においてイデア論的な考えであるアプリオリというものを提示したのであるが
そもそも人がどこまで何を知りえるのかという問題があって
それは信仰の世界においても共通していえる人の受け止め方の問題いわゆる主観の問題などが実際のところ現代社会では放置されている
イデアがあるのはわかった古代の哲学者の代表であるソクラテスはイデアの存在はあるということはわかるだそれは垣間見ることしかできないと考えていたようだ
実際彼に聞くすべはないので推測にはなるが大体のところ当たっていると思う
カントも人が考えるより以前に存在している概念というものがありそれをアプリオリと呼んでいた
信仰ではこのイデアというものをベースにしてローマにキリスト教がギリシャ哲学的な解釈をもとに発展したといっても外れていないと思うだが
一番の問題はこのイデアというものが人の認識では完全にできないためにそれを人は不可知的と考えることやそもそもイデアをとらえることを放棄して今わかる範囲ないでイデアをイデアという主観の森に埋もれることをしたりさらにはイデアなど存在しないとそう思うようなったりと信仰をしている立場でもこのイデア認識をどうもつのかで大きな違うがでてきている
実際のところ教派の教義や主張は最終的には究極存在である神というイデア的なものをどうとらえるのかということにつきるのであって
いろいろ細かいところはこの認識から全て生じてきているとも言える
もちろんイデアという概念を超えて信仰を定義するということもできるのであるが多くの信仰はイデア的なものにはなっている
ここではそのイデア的でないある種より本質的な神認識(神をどう認識するのかということであって人が神的存在であることを認識することではない)についてはどちらかというマイナーなためこれについて考えないが機会があればそれについて考えることは有意義だと思う
ただ現実我々が何であるのかを意識すること自覚することがまず必要なのはソクラテスが無知の知に気が付くことと同じく必要なことである
私達は実は不可知的な存在であることは確かであって
神様や主を正しく認識などそもそもできない隔絶された状態にあるのも事実である。だからこそ主の救いが必要でもあるのであるのだがいつのまにか不可知的なことに絶望を抱く時代を迎えてしまった
絶望などそもそも私達の本質ではない、それは罪ゆえの結果的なものでありその罪は主の存在で許されるというのも贖罪の理屈でもあるのだから、この不可知的存在の絶望が何を意味するのかとそれをどうとらえるのかは現代の信仰において重要なポイントであると思われる