信仰における段階

ひとえに信仰といっても
いろいろあるだろう

最終的には神霊主義的な高まりを感じる
そんなところを目指したいが

そもそも日常で常にそうなることが
できるというのもなかなか難しい

それで考えたのだけれど
段階的に高まっていくというのが
もう少し見えやすくなったらいいの
かもしれないとそう感じたので
それについて考えてみたい

信仰の段階の最初は理性的な信仰体験

目に見えないものを信じるという
聖書の規定があるように
信仰とは

理解できないもの
感じられないもの

を感じてくものだ

生まれながらに神霊に触れる
そういう体質がある人も
少なるいるのだが
普通はそうではない

私の主観的な感覚では
神霊的に触れられる風に
生まれてきた人はきっと
1割ぐらいかと思われる

なのでそういう人は
違った信仰の取り組みがあるが
それはここでは外す

通常は神霊に触れるというのに
似た何かの感覚的又は感情的な
体験によっていわゆる回心体験を
ベースにするものだろうが

基本頭で理解する教義的なものが
大きな役割をする

これを理性的な信仰体験と
そう名付けることにする


理性的な信仰体験の要は倫理的な感覚

パウロもそうだがアウグスティヌスにおいても
神との出会いの体験は非常にあいまいで
主観的そして直感的なもので
ある意味理解しがたい理性的なものでない
部分というのがかなり出てしまう

しかしその段階を引き受けていくには
直接祈りで出会うのも一つの方法だが
それだと経典とか教義とか必要なくなってしまう

経典や教義に縛られるのはよくないが
参考文献的にそれをとらえるのは
必要なことである

それで一番手頃の手がけかたがいわゆる
倫理的に捉えるということである

これを倫理的と表現するのに
抵抗がある人がいるかもしれないが
しかしながら理性を超えた啓示と
直接に祈りで神や主の声を聞くのでなければ
それ以外を倫理的と表現しても
倫理的というものがただの
守り事の範囲というわけではないと
納得してもらえるかと思うが
この倫理的な信仰はわかりやすく
理解しやすいものであるのが
ある意味利点ではあるが
もちろん問題点もある
それについてまた次回にする

倫理的な感覚とは何か

そもそも何ために信仰をするのか
そこが一番の重要な概念にはなる
その何のためにの部分は深くそして
いろいろな次元もあるもので
はっきりいってこれだと
言い切れる人は基本いない

なのでこの部分を抜きにして
そこに向かうための備えるものとして
この倫理的な理解というものが
ある種いい働きをするのである

私達は最終的にはキリストとともに
神様の御前に帰りたいのであって
そのためのある種の道具がこの
倫理的な信仰である

なのでまずはキリスト教的な倫理とは
何であるのかそれを詳細に分析して
いかないとならないことだろう

倫理的な信仰観の要は自分を愛するがごとく人を愛しないということ

多くのキリスト教徒が
一番簡単にいう言葉が利他的なとか犠牲的な愛
それになると思う

これがいわゆるキリストがいった
第二の方の律法で倫理的な信仰の要に
なっているのである

勿論倫理的なだけでは
黙示録や聖書歴史などや
選びや召命などは意味をさほど
持たなくなることもでてくるが

高い倫理的な基準なくして啓示や黙示を
理解することも実は難しいのである

最終的には啓示や黙示そして神霊的な
交わりにいくにしてもこの倫理的な
部分というのは重要な基盤にもなる

これはユダヤ教では律法であったし
キリスト教ではパウロの手紙の中における
愛の教えになることだろう

これらの中身をまた次に細かく分析していきたいと思う

今回は導入ということでここまで

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