心が清い人は幸いであるが何をもって清いというのか

こんにちはあーろんと申します
アメリカでのキリスト教体験をもとに発信しているものです
数代前にドイツ人の先祖をもつクリスチャンで母で途中きれましたが
もう何代目なのかわかりません
日頃ツイで祈りの深みとは何か、キリスト教の目的とは何かなどを
呟いております

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今回は有名な山上の垂訓の御言葉から
心の清い人が神様を見れるとあるので
その部分を探求してみたいと

お時間ありましたらお付き合いくださいませ

清い=神様を見るつまりそれは神様の性質を感じること


心が清いというと何かやさしいとか
何か純粋だとかそういうものをまず
想像するように思えます

勿論それも答えなのでしょうが

ただもし神様を見るのであれば霊的に祈りの中とかで
そういう心理状態になれば神様を見るいわゆる
感じることになるのかなと

そう思うと自分の体験で恐縮ですが
少しみえてくるところがあります

それは神様の性質そのものもしくは神様が
感じられているものそのものそれが

清い

ではないのかと

確かにそう考えると納得できます

なので清いというのも種々奥深い神様の
性質を考えればいろいろなバリエーションも
あるのかとそう思います

感じるには準備の経験が必要になる

皆さんもそれぞれに体験があるかと思いますが
祈りの中で神様の気持ちやら御声などが聞こえてきたりとか
聖霊の感動の際に何か感情的なものを感じたりだとか
そういうものがある場合

その感じたものを体感するために
実は私の中で何かの準備がされています

当たり前ですが体験できていないものは
まるで想像するのに足掛かりもないわけで
一方的な直感のように神様や聖霊の導きは
勿論きますが

私の中で似たような体験がないと
しっかりと認識ができないのも事実です

だから清い=神様の性質を知るためには
神様と同じとはいきませんが似たような
体験や経験がなければいけません

それはより神様の本質に近いものであれば
より清さが強まるののはいうまでも
ありませんが…

清さを求めるには神様の心を尋ね求めるしかない

聖なるものは神様の性質そのもの
そして信仰の中心地のひとつ

それは清さをつかむことが一つの
道であることは言うまでもありません

私たちは機会を得て
キリストを知り神様のみ旨=お心を
知ることになりました

教派の違いはあっても
そのお心であるみ旨は普遍的であり
そして本来それは人の解釈の外にあるものです

この清さ一つといってもそれによって
私達がその概念をどう理解もしくは感じる
もしくは祈れるのかによって

神様の性質は変ってきます

信仰は入り口であり
その神様の性質の部分を
しっかりと尋ねないと信仰もある主の
目的地である清さにたどり着きません

結局は何をいっても
最終的には神様の御心を
深く感じて神様と共有する場所を
増やしていくことが信仰にとって
一番のポイントであることは
間違いありません

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