大人

「大人になりなさい」
このような言葉を一度は耳にして、また言われたことがあるだろう。
私はこの言葉を聞くたびに下記のようなことを、いつも考えてしまう。

それは、
・①その言葉を発している人は大人なのだろうか
・②なるべき大人とは誰を指しているのだろうか
・③そもそも何をもって、大人になった、と判断するのだろうか

この順序で考えるのは恐らく、
①言われた瞬間に自分のプライドを傷つけられて相手に怒りを覚える、そのため売られた喧嘩を買うように相手に対して攻撃的な言葉を考える。
②その後冷静さを取り戻して、相手の意見を一旦納得してみると、純粋に相手の発言には不足があると気づき疑問を持つ。
③その上で相手の存在を視界から消し、自分の思考のみに没頭して、その思考だけを楽しむように、発言の違和感に当たる単語の抽象さや定義について考え込む。
このようなところであろう。

では、大人の定義、について考えてみよう。

まず、大人=成人とするなら、数字は日本国憲法に則れば18歳であろう。
しかし上記で示した、「大人になりなさい」という発言は、成人者に対して使われないか、と聞かれたら決してそうではないであろう。
このことから少なくとも発言の中の「大人」とは、物理的であったり身体的や肉体的な意味ではないことが分かる。

では次に、身体的ではなくその反対の、精神的な意味として考えてみよう。
精神的な意味で大人、とはどういうことであろうか。

この場合は、大人の対義語である、子ども、で考えてみよう。

少し話が逸れてしまうが、大人と子どもの関係について考えよう。生物は常に変化して適応する。変化して適応するからこそ生き残ることができる。つまり生き残れない生物とは、変化できず環境に適応できなかった生物、ということになる。このことから人間は生物であるため、変化して適応しなければならない。変化して適応する、ということを言い換えれば、進化する、ということになるだろう。つまり、人間を含めた生物は進化する。進化できなかった、つまり相対的な退化をしたら生き残ることができない。こう言うことができる。

話を戻して、上記から子どもから大人になることは、環境、人間で言う社会、に適応するための進化だろう。つまり、精神的に大人になりなさい、とは、精神的に子どもの状態から大人の状態に進化しなさい、ということになる。

精神的に子どもの状態とは、どのようなものだろうか。
分かりやすく、人間が社会に出る前と出た後の変化、について考えてみよう。
沢山の変化があると思うが私は、「相手や社会からの理不尽を自身の寛大な心で許容し寛容することが出来て、我儘や自分勝手な行動はしないように、理性で自身の行動を制限出来るようになること」であると思う。
少なくともここで理解してほしいことは、思考や感情を全て縛り、相手の理不尽に対して、怒りなどの生物の本能までを制限することではない、ということである。
思考や感情などの何を考えたか、何を思ったか、何を感じたか、ではなく、何をするか、しか相手は完璧には知ることができないからである。
そのため理性で制限するのは自身の「行動」のみである。

結論として、私の考える大人とは、「相手や社会からの理不尽を自身の寛大な心で許容し寛容することが出来て、我儘や自分勝手な行動はしないように、理性で自分の行動を制限出来るような人」である。

よって、私にとって「大人になりなさい」とは、「相手や社会からの理不尽を自身の寛大な心で許容し寛容することが出来て、我儘や自分勝手な行動はしないように、理性で自分の行動を制限出来るような人になりなさい」ということである。

しかし最後に、注意しなければならないことがある。
私の定義する大人とはあくまで、「周囲からの理不尽を寛容『出来る』人」「制限『出来る』人」である。すなわち、出来ることを前提とした上で、「する」か「しない」かの選択を自主的に「しない」と選ぶこともできる。つまり自身の我儘や自分勝手を優先することもできる。その場合はその後についても、考え責任を持たなければいけないであろう。その道を選んだのは紛れもない自分自身であるからだ。
また定義だけ見ると、周囲の理不尽に耐え自身を自身で押さえつける人が大人である、とも捉えることが出来てしまうことである。勘違いされる前に断言しよう、それは間違いである。上記の繰り返しになるが、必ず「選択できる」ことが絶対条件である。そして「する」も「しない」も自身が決めることが出来なければ成り立たない。

さぁ、”定義”は決めた。これを基準に私の中では、私も含めた誰が大人であるか、そうでないかが判別できるであろう。しかし現実的にこれを実行しているような人は存在するのだろうか。

では、また。

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