愛の水槽が空っぽなので誰か愛をください
母は癌だ。入退院を繰り返しその度に抗がん剤治療を受けている。日々が進むごとに髪は抜け、脚は細くなり衰退しているのが分かる。月日なんて止まればいいのにと、そんな馬鹿なことを思うほど私の心はこの残酷な現実を受け止められていない。
だけど月日ってのは、世の中ってのは、こんな女子大生の事情なんて1ミリも、いや1マイクロも気にせずに進んでいく。今日もバイト。今日も大学。今日という日も、明日にはきちんと昨日になる。ただ毎日を生きることがこれほど辛いことだったのかと、そんなことすら感じてしまう。私は月日に置いていかれているのだろうか。
だけど今日も友達に優しくしなくてはならない。というより優しい自分でいたいのだ。いつもと変わらない、明るく優しい、面白い自分でいたい。
だけど今日もお客さんには笑顔を振り撒かなくてはならない。心はこれっぽっちも笑っていないのに、笑顔でドーナツを売らなくてはいけない。ドーナツなんてこの世になくてもいいような“幸せな象徴”みたいなモノを、笑顔で売らなくてはいけない。
だけど今日も生徒には最大限のサポートを提供しなくてはならない。個別塾における担当の先生とは、生徒の勉強だけでなくその私生活にまでも気を配らなくてはならない。
キリキリと胃が痛む。
ああ、これがストレスってやつなのか。
生徒の一人に私と似たような境遇の子がいる。最近その子の母親が早期発見した乳がんを手術で切除するために入院したらしい。ママっ子のその子にはそれが想像以上にショックな出来事だったらしく、1日だけ学校を休んでしまった。だけどその日も塾には来てくれた。私の授業にきちんと来てくれたのだ。
自分も痛いほどその子の気持ちが分かるから、母親について、癌について、父親との息苦しい生活について、その子の心が少しでも楽になるように話せるようなことは全部話した。できる限りの優しい言葉を選んで、少しも寂しい思いをさせないように、最大限の配慮を持って授業をした。「大変だったね」「頑張ったんだね」そんな言葉を掛けながら、彼女の顔色が明るくなる過程を見守りながら。
授業終了のチャイムが鳴り生徒が帰宅した後、
「メンタルケアちゃんとしてあげてね」と社員に言われた。
私も帰宅する。
家までの道、涙が止まらない。
「メンタルケアしてあげて」。
そんなことは分かっている。やっている。
じゃあ私のメンタルは?日々衰退していく母を身近に置きながらも普段通りの優しい明るい面白い自分をどうにか保っている、私のメンタルは?
そんなことを思ってしまう。もう22歳なのに。私は生徒の“先生”であるのに。
ああ、人って愛の水槽が空になるとその水槽を誰かに満たしてもらうことを切望するんだなと思った。自分から出る矢印ばかりで自分に向かう矢印はない、そんな感覚だ。22歳ながらに私も「大変だったね」「頑張ったんだね」そんな風に誰かに言われたい。涙を見せて漠然とした不安や悲しみを心の外に吐き出したい。会いたい、誰かに。分からないけど、温かい誰かにとてつもなく会いたい。
きっと今友達と呼べる存在が目の前に来たら涙を流して抱きついてしまう。恥など捨てて自分から愛を感じにいきたい、それくらい私の水槽は空っぽなのだ。
心ここに在らず。私の外見だけが今日を生きている。そんな感じがする。
他人に弱さを露呈出来ないほどに、私は弱い。人に頼るのが怖いのだ、こんな辛い時でも。私の愛の水槽はどんどん枯れていくのに、頼れない。明るい面白い自分がそんなことをするはずがない。だけどどこかで、誰かに助けて欲しがっている自分がいる。
他人の水槽にこれでもかというくらいの潤いを与えて、信頼なる人にこれでもかというくらいの潤いをもらう。そんな理想的な愛のギブアンドテイクを持続できる人生はこの先やってくるのだろうか。
ああもう、そんなことはどうでもいい。
今はたったスプーン1杯の潤いでも丁寧に私の水槽に注いでくれる、そんな温かさが私は欲しい。
#あち子どうした #人間悲しくなる時ってあるよね #情緒不安定とはこのこと #接客業ってこうゆうとききついよねえ #泣きたい気持ちでいっぱいなのに泣いたら疲れるというダブルバインド