『手当たり日記 95』 老いる祖父母と父の変化 2024年2月12日 (4000文字)
昨日、2月11日の日記。
三連休の中日。もともと友人との約束があったが、家族の手伝いを優先するためにキャンセルさせてもらっていた。昨日の夜、母と話し込んでいたら、深夜2時くらいになってしまったので、朝は10時過ぎまで寝ていた。6、7個ストックしてあるシリアルの中から、すでに封が開いているものを見定めて、豆乳をかけて食べる。湯を沸かしてコーヒーも淹れた。祖父がだいぶ前にたくさん買っておいたものらしく、スーパーに売っている500g数百円とか、1kg数百円のものだ。適当にハンドドリップで入れて飲むが、これもこれで。雑に飲むコーヒーも、またいい。
冷蔵庫に、賞味期限の過ぎたチャーシューと、ずっと置いてあるシーフードミックスがあったので、昼間はチャーハンとオムライスを作ろうと思っていた。昨日の夜に、炊飯器をかけて置いたので、蓋を開けてかき混ぜた。冷めたご飯のほうが、パラパラのチャーハンが作れるので、ふんわりラップをかけて、横によけておく。祖父は、今日は少し調子がいいようで、ジュースとヨーグルトを口にした後、新聞が読みたいと言ったので、リビングから持ってくる。僕は祖父にメガネをかけさせて、新聞のページをめくるのを手伝った。一面に、大谷翔平のニュースが大きく載っていたので、「大谷はドジャースに移籍して、本格的に練習が始まったらしいよ」と、祖父に伝える。祖父は、小さく、コクコクと頷いていた。母は、昨日祖父の兄妹からもらったお見舞いのお金をどの口座に入れるか、その口座の通帳はどこか、と祖父に聞き、慌ただしく探し始めた。昼過ぎまで、祖母と一緒に、祖父の寝室で祖父とおしゃべりをしたりした。おしゃべりといっても、祖父は少しずつ朦朧としてきてしまっているのと、喉のリンパが腫れているせいで、あまり喋れない。僕と祖母で、向かいの思い出話などを、祖父に聞こえるように大声で話していた。そうこうしているうちに、昼の1時になっていたので、いそいで昼食の準備をした。母と祖母には、オムライス。父と自分にはチャーハンを作った。父が、うまいうまいと食べていた。
午後は、祖母を連れて普段行かないスーパーに買い物に行く予定だった。祖母は、1年半前くらいから軽度認知症が進行していて、一人ではあまり出歩けないので、かつて原付に乗り回して図書館や買い物に行っていたような場所に、めっきり行かなくなっていた。歩いて行くには遠い、安さが売りのスーパーまで親の車を借りて祖母と向かう。運転免許証を返納して原付に乗らなくなったのはもう3年ほど前なのに、車の中で祖母は、「バイクに乗らなくなってすっかり生活が変わった」という話を何度かしていた。普段からよくしている話ではあるが、これだけ何度も言うということは、やはり相当なのだろう。乗り物というのは、現代社会に生きる我々にとって、欠かせない能力拡張のツールだ。使い慣れた乗り物を失うだけで、急に自分の世界が狭まってしまったような気がするのは確かだ。免許返納に伴う世界の萎縮、それからコロナ禍もあり、習い事や教室にも行けなくなってしまった。僕の姉や、僕自身も2020年前後に実家を出てしまっていた。ここ数年で、祖母が頼りにしていたり、心の支えにしていたものが一気に、遠のいたり、崩れ去ってしまったりしたのかもしれない。少しでも、祖母の生活に変化があるように、できることはしたかった。
スーパーは三連休の2日目にも関わらず混んでいた。祖母がちゃんと着いてきているか、気にしながら、買い物客の人混みを塗って店内を物色した。車で来ている安心感があり、ついたくさん買い込んでしまった。近くに、一度行ったことのあるコーヒー豆屋があったので、買い物袋を車に置いた後、スーパーを出て道を歩いた。午前中は天気が良かったが、うっすら雲が出てきていた。建物の隙間から夕陽が見えそうだったので立ち止まって目を凝らすと、雪を少し被った丹沢がクリアに見えた。祖母に、丹沢見えるよ、と声をかけるがあっさりした反応。祖父は山や川、建物や地名などには昔から関心があったが、祖母はそうでもない。それは今も変わらず。コーヒー豆屋の前まで行く前に、念のためグーグルマップで店を調べると、今日は定休日だった。先に調べてけばよかったが、しょうがない。祖母にそう伝えると、日曜日に休む店があるのか、と悪気のない軽い文句を言っていた。これも昔から変わらず。一通り買い物を終えると、祖母は少し疲れた様子だった。
夕飯には、春菊とタコに、旨みの火薬ことサクサクしょうゆアーモンドとわさびを和えためちゃうまサラダ。そして、豚汁とさつま汁のハーフみたいな汁を作った。春菊の方は、クセもあったので、みんな気にいるかどうか心配だったが、おいしいおいしいと、みんなペロリと食べてくれた。家族に、料理を作って、それをおいしいと言ってもらえることが何よりも嬉しい。金銭面での援助はできないし、両親はその必要もないので、自分にできる限られた孝行。料理が好きでよかった。
祖父以外の皆で夕食を食べ終わるか終わらないか、そんな時に祖父の呼び鈴が鳴った。祖父がそばを食べたいと言い出す。叔母の両親からもらっていたフリーズドライの煮麺をお湯で戻して、持っていったら、3口くらい食べてくれた。昨日食べたどら焼きもあると言うと、ちいさめの2口分を食べた。
夜9時半ごろ、2階のリビングで親とテレビを見ていたら祖父の呼び鈴がなった。祖母は風呂に入っていたようだった。祖父の身の回りの手伝いを済ませて部屋を出ようとすると、祖父がかすれた声で何か言っている。振り向くと、こちらを見て、何かを伝えようとしている。近くまで戻り、顔を近づけて聞き返すと、「何かあったら逃げなさい」と言う。覚醒して、何かを伝えたいのか、朦朧としてうわごとのようにただことばを発しているだけなのか、分からない。「何が?」と聞いても、「何かあったら逃げなさいよ」と繰り返された。大丈夫だよ、何があってもおじいちゃんだけ置いて行ったりしないよ、大丈夫。と伝えると、分かったのかどうなのか判然としない表情で頷いていた。
夜11時半ごろ。部屋で日記を書いていると、また呼び鈴が鳴る。急いで下の階へ降り、寝室の電気をつける。祖父にどうしたの、と声をかけると、たどたどしく、かすれた声で「明日はどうする?いつここを出ればいいの?車は誰が持って行く?」などと聞いてくる。夢でも見ていたのだろうか。初めは聞いてくる質問に、答えていたが、隣に寝ている祖母が起きて眩しそうにしていたので、もう夜だから明日話そうと、祖父に伝えた。すると祖父は「じゃあ、まかせていい?」と言う。僕は、祖父の手を握って、「いいよ、任せて。大丈夫だよ、みんないるから。なにかやりたいことあったら明日やろうね。」というと、祖父は安心した表情で天井を向いて目を閉じた。隣の祖母を見ると、目を開けて起きていて、「大変だね、ご苦労様」と僕に言った。「ごめんね起こしちゃったね」、と言って僕が寝室の電気を消して部屋を出て行こうとすると、祖母が「ここは家だからどこにも行かなくて大丈夫だよ、お父さん」と祖父に言っている声が聞こえた。
ここ2、3週間で、祖父は少しずつうわごとのようなことを言うようになっていた。日中寝ている時間が長くなってきたり、体が弱っているのも原因かもしれない。昨日も今日も、ここが我が家ではない場所で、明日にでも出なければいけない、と思っているようだった。その度に、大丈夫だよ、ここはおじいちゃんのいえだから。どこにも行かなくてもいいんだよ、と言ったことを伝える。すると、そうか、と安心したような声を出したり、リラックスした表情になることもあれば、何か言いたげな顔でいる時もある。
風呂に入り、リビングのソファーで本を読んでいたら、風呂から上がった母が来た。お互いもう寝る、と言いつつ話が始まる。最近の祖父の話、祖母の認知症の話、それぞれの仕事の話、家族の話。そして、秋田に住んでいた父方の祖父が亡くなった時の話になった。そちら側の祖父が亡くなった時は、癌の発見が遅れたのもあり、最期あまり会話もできずにお別れをした。僕は単に、医師の判断ミスだと思っていたのだが、母と話して行くうちに、僕の父も相当戸惑っていて、家族が秋田に来ることをためらっていたらしい、ということがわかってきた。父の中で、自分の親が死に直面している事、そして、自分自身がその準備ができていない事。きっと、それらが整理できないままものすごい勢いで渦巻いていたのだと思う。そんな状態の自分を、妻やこどもに見せたくなかったのかもしれない。結果、僕らは治療の副作用で腫れた祖父に一度会い、その次に会ったのは葬式だった。母はそれをずっと気にしていたらしい。自分の親の死に目には、自分も夫も、こどもたちも立ち会わせたい。老いていき、衰弱しつつあるその瞬間に、僕らこどもたちを居合わせたいと思っていたらしい。
それから、最近父に少し変化がある気がしていた。以前から、義理の両親であるにも関わらず、僕の祖父母にデカい態度をとってきた父だったが、今日の昼、進んで皿洗いをしていた。もっと前から、当然家事の一部でも担っているべきだとは思うし、ただの一度の皿洗いを褒めるつもりはさらさらないが、僕は20年以上側で見てきた父に現れた大きな変化として受け取った。それに、老いていく義両親に対して、ここ数ヶ月は、よりそう態度で、よりそう言葉遣いになっているという変化も感じた。数日前に、父が母に漏らしたそうなのだが、父にとって義両親は、自分の両親より長く過ごしてきた存在。自分の父が亡くなって15年、母が亡くなって2年。そして、義両親が目に見えて衰えていく今、これまで感じていなかった何か、を父は感じ考えているのかもしれない。