2024年8月31日(土) 夏休みの終わり
今日、8月31日が土曜日で、翌日の9月1日が日曜日であったとしても、今日が夏休みの終わりだ。明日9月1日が日曜日であっても、今日、8月31日が必ず夏休みの終わり。僕は、年齢で言えばもうとっくに、立派な大人としてみられるはずなのに、今日が夏休み最後の日であることが強く意識されて、胸の奥がむずがゆい気がする。ややこしくて申し訳ないのだけど、今日8月31日土曜日は、仕事があったので、僕は休みではなかった。朝から晩まで窓のない編集室に一日中こもって、番組の仕上げ作業をしていた。
18時半過ぎに、仕事をなんとなしに抜け出した。前日にタクシーの車内にブルートゥースイヤホンを落としてしまっていたので、営業所まで取りに行こうと思っていた。自宅に着払いで発送してもらう方法もあったが、タクシー会社のひとに手間をかけてしまうのが申し訳なかった。それと、タクシーの営業所という、普段立ち入らない場所を見てみたい気持ちもあった。
昨日問い合わせの電話口で教えてもらった住所を頼りに、西早稲田駅で副都心線を降りる。初めて来た駅だ。人があまりいない。ホームの両端に改札階行きのエスカレーターがあるため、電車の真ん中あたりで降りると長々と歩かされてしまう。薄暗く、蒸し暑い。さらに、ホームは地下深いため、地上に出るために何度もエスカレーターを乗り継がなければいけなかった。あまり人がいなかった。空調か、エスカレーターのものか、絶え間なく、低く唸るような音が聞こえてくる。この駅は早大理工学部に直結しているのか、などと考えながら、シャッターの閉まったその出入り口を横目に通過し、またエスカレーターに乗る。
地上に出ると、視界が開けた。小雨が降っていた。目の前の青信号を早足に渡る。ビッグボーイとドンキが並ぶ道。ビッグボーイとドンキが同じクラスにいたら、ふたりはきっと仲が良いと思う。高価な家庭用ゲーム機はないけれど、細々したおもちゃや、あまり頭の使わないおもちゃはいろいろ持っていて、世界が遊び場みたいなやつら。たまにデニムのオーバーオールを親に着させられている。ドンキは年の離れた兄弟がいるけど、ビッグボーイは一人っ子だと思う。
グーグルマップで調べると、そのタクシー会社の位置情報はエネオスのガソリンスタンドを指していた。これまで生きてきてなんとなく得ている知識から、タクシー会社の営業所にガソリンスタンドが併設していることはなんとなく予想ができた。営業終了して電気の落とされたガソリンスタンドの周囲を歩き回るが、タクシー会社の名前が書かれたそれらしい窓口はない。早稲田大学のクマのキャラクターがプリントされた大きなバスが3台、静かに停まっているだけだった。
再び、昨日かけた電話番号を鳴らしてみる。昨日ほどすぐには電話は取られない。しばらくすると男性が出た。ガソリンスタンドの奥にある大きな立体駐車場の受付に要件を言えば、7階にあるタクシー会社の営業所まで案内してくれるという。蛍光灯で明るい、古臭く雑然とした受付室内を覗き込むと、誰もいない。ごめんください、と声をかけてみるが、返事も全くない。駐車場の中まで入ると、「4階〜7階 〇〇キャブ」と書かれた看板が階段の上を指している。7階まで階段で上がるのはさすがにしんどいだろうと思い、エレベーターを探して駐車場の奥に歩いて行った。
「〇〇キャブ 運転手面接会場はこちら」とポップなデザインで描かれた矢印付きの看板が目に入る。そちらに歩いて覗いてみると、また階段だった。もしかして、エレベーターがない建物なのだろうか。薄暗い階段を上ってみる。どうやら、階段を上り始めたフロアが3階だったようだ。階段は6階までしかなく、すぐに一番上までたどり着いた。あたりは暗く、照明はほとんど点いていない。6階まで来ると、面接会場の看板もなくなり、トイレの照明にほのかに照らされた暗く短い廊下に、古臭い「ミーテングルーム」と書かれた暗い部屋が両サイドにあるだけだ。いったいどこに行ったら良いのだろう。そう思いながら、タクシーが整然と並んでいる6階の駐車場エリアに出た。ここは、ふつうの駐車場よろしく、蛍光灯が焚かれていて明るい。あたりを見回してみるが、「面接会場」の看板も、営業所を示す標識もない。
その場でしばらく立ち尽くしていると、タクシー運転手の制服を着た太った男性がふらふらとさきのほうを横切っていく。会釈をして声を変えようとするが、ちらっと目があっただけで、太った運転手はそのまま歩いて行った。きっと彼が歩いていく方向が営業所なのだろうと思い、後をつけようとした時、背後に別の人影が見えた。満杯になったビニール袋を二つ手に下げ、部屋着と、カジュアルな服装の中間のような格好をしている、小柄な白髪の初老男性。彼も、運転手さんだろうか。僕と目が合うと、話しかけても良さそうなそぶりを見せた。忘れ物を取りに来たが、営業所への行き方がわからず迷っている、と伝えた。その男性は、「分かりにくいんですよね、案内します。」と明るく応え、「えーと、こっち行ったら濡れちゃうからね、こっちから行きましょうか」と優しくつぶやいてから、こっちです、と駐車場の奥へ歩き始めた。「何忘れたの?スマホ?」と聞かれ、「イヤホンです、ブルートゥースの小さいやつで」と答える。駐車場のフロアには、間隔を開けてタクシーがずらりと並んでいた。
「エレベーター、ないんですね。この建物、結構古いんですか。」と僕が不躾な問いかけをすると、「そうなんですよ、ここはね第一回の東京自動車ショーに使われた場所でね…」と答えてくれた。あとで調べると、第一回自動車ショウ(のちの東京モーターショー)は1954年に日比谷公園で開催されている。もしかしたら、自動車ショウで使用された車両を一時的に保管、管理するために、この駐車場が使われていたのかもしれない。初老の男性が言った言葉をはっきりとは聞き取れていなかったので、別のイベントの可能性もある。いずれにせよ、建てられてからかなり経っているようだ。歩きながら、この建物についての雑談を少し続けた。
駐車場を横切って建物の反対側まで歩いていくと、上のフロアに上がるカーブしたスロープがあった。「ここだけ屋根がないんで濡れちゃうんですけど…」と初老の男性。6階だけあって、少し眺望がある。薄暗く、隣のマンションや、近くの公園の林が見える。車の滑り止めのために掘られた溝にあるそのスロープの道を、ふたりでゆっくりと歩いて登る。「すみません、わざわざ案内していただいて。なにかの途中でしたか…、すみません。」と僕が言うと、「今日はね、日勤もなくてお休みだったの。洗濯でもしようと思って。」とこたえる。彼は、制服か、仕事関連の衣類などが入っているであろう、満杯のビニール袋を少し上げてみせた。
登り切ると、右手に事務所のような部屋が見えた。ここです、と言って、初老の男性が扉を開ける。「忘れ物の方です、イヤホン。」と当直の事務員らしき男性に声をかける。名前を伝えると、すぐに僕のイヤホンが出てきた。「それです、すみません、ありがとうございました。」と受け取り、書類に必要事項を記入した。案内してくれた初老の男性はやはり運転手で、当直のスタッフと和やかに会話している。「〇〇さん、案内ありがとう!」とスタッフ。僕は「おせわんなりました、ありがとうございます!」とお辞儀をしてから、その運転手さんと事務所を出た。
運転手さんは「下まで送って行きますよ、どうせあれするんで。」と、来た道を一緒に引き返す。スロープを降りながら、
「ここからあれが見えるんですよ、あの、なんつったかな、あれ。」
と東の方を指差す。
「スカイツリーですか?」
「そうそう、スカイツリー。それからね、前は東京タワーも見えたんだけど、このマンションでね。こっちにはサンシャインも見えるんだよ。ほら。」
「あ、池袋の。」
夜のサンシャインシティをじっくりと見たことがないので、どれがそれなのか、全く分からなかった。指さされた方角には、高いビルが2、3棟見えたので、そのうちのどれかだろう。
再び階段まで、駐車場を横切る。彼は、もうこのタクシー会社を27年間勤め上げて、もうすぐ定年らしい。その前にも、数年間タクシーを運転していた、という。今思えば、約30年で、この建物がどう変わって、どう変わらなくて、周りの景色や建物がどう変わって、東京がどんなで、どんなお仕事をしてきたのか、聞けばよかった、と残念に思う。僕は彼に何を聞いただろうか。タクシーが並ぶ駐車場を歩きながら、取るに足らない雑談をして、その間ずっと蒸し暑かった。彼にとっては数えきれないほど歩いてきたこの駐車場に、僕は初めて来て、そしてきっともう来ない。
6階から3階まで、階段で歩いて降りる。
僕が「毎日階段の上り下り、大変ですね。」と聞くと意外な答えが返ってきた。
「いつも上り下りしてるとね、この階段でね、自分の調子がわかるの。」
「へー。」
「特にね、上ったときにすごくわかるのよ。」
「なるほど。すぐに疲れちゃうとか。」
「そう、すぐに疲れちゃう時は、調子が良くないんだな、とかね。そう言うふうなの。エレベーター乗ったりさ、エスカレーター乗ったりして楽すると、自分の調子がいいかなんて分かんないじゃない。だからね、いいんだよ、この階段は。」
あっという間に3階について、駐車場の受付にたどり着いた。受付の係員が戻ってきていた。
運転手さんは「あそこのコインラインドリーでいつも洗濯してるのよ。」と、細い道の先を指差した。コインランドリーの光る看板が目に入る。僕は、「お休みの時にありがとうございました。お世話になりました。」と頭を深く下げた。
運転手さんは「はいはい、お疲れ様〜」と言って道路を渡っていった。
ドンキとビッグボーイのある道に出る。24時間ぶりのワイヤレスイヤホンを取り出して耳に入れる。ノイズキャンセリングをオフにして、小雨の中、西早稲田駅に向かって歩いた。