ブルシットなコミュニケーションの型
人と付き合うことが年々苦手になってきている自分がいる。その一方で、人と程良く付き合うことが得意になってきている自分もいる。これは一体、両立している話なのか。
コミュニケーションのためのコミュニケーション、こういう風にふるまうととりあえずこの場は上手く進むだろうという語り方・モードみたいなものが発動しているときに、「自分はいま上手くやっているなぁ」という自覚があるのだけど、そういうときはどっちかと言うと「何をやってるんだろう?」という気持ちになる。決して、嘘を言ってるわけでも、自分の考えを曲げているわけでもない。ただコミュニケーションの型として、やんわりしているというか、当たり障りのないというか、そういうふるまいが年々できるようになっていると思うと同時に、年々「コミュニケーションとは何か?」がわからなくなって結果的に、「ああ、自分はこういうことを考えてしまう時点で、人付き合いが苦手なんだなぁ」という答えに辿り着く。
こういうことをいちいち意識せずにすぅっと話せる人を、一般的には「友達」と言うのかも。そう考えると、僕は仕事柄人前に出ることが多いので知り合いはたくさんいるけど、本当に友達が少ないとつくづく思う。でも、グラデーションはある。友人って言っていいか(向こうにも申し訳ないので)わからないけど、まぁ、思ったことをあまり無駄な、あるいは妙な型を介さずに直球で話せる人が確かにいて、でも、友人って感じでもなくって。で、自分にとっては、こういうタイプに位置付けられる人が一番、トップギアでやりとりできる相手だったりする。突然、何の前触れもなく、抽象度が高い話に入れたり、極めて些細な話も等価にできたり、そもそもそれとこれがつながっていたり。
面白いのは、そういう相手と仕事をするときに、その仕事の質は「おお、これはイケんちゃう!?面白いんちゃう!?」と思えるモノが作れるんだけど、大体、人が来ないし、あんまし売れない笑。もうちょっと、前述してきた「コミュニケーションのためのコミュニケーション」的なことを挟んでいる相手との仕事の方が、多分、僕の仕事の中ではまだ一般ウケするような感じがある。ほんとは前者だけやっていきたい気もするけど、大学で学生に日々教えるようになってからは、「後者も(自分のなかの要素として)あった方がいいんだろうな」と思えるようになった。なんか、ぐるっと回って、上手くやる感じの自覚を伴うコミュニケーションの型の先に生まれることってやっぱりポップではあるのかしら?ラディカルではないかもだけど、などと思う日もある。
いや!でも、そこにもさすがに程度差はあって、型が型でありすぎて、中身が伴わなさすぎのやりとりもしたくないし、そういう結果は残したくないので、さすがに逃げることも多々ある。こんなことを書いていたら、デイヴィッド・グレイバーの「ブルシット・ジョブ」という概念が浮かぶ。業務というよりも、コミュニケーションがすでにブルシットだって話。そんなことは、世の中ごまんとあるよね。
でも再び、コミュニケーション、人とのやりとり自体に、クソかどうかという評価軸を持ち込みすぎると、最終的に社会は回らなくなるのかもしれない。「無駄か/役に立つか」という評価は、しなくていいと思う。無駄は害悪とは言い切れないし、「無駄の有用性」は確かにある(これを否定できる感覚があるなら、アートに身を投じてないかも)。でも、時に、コミュニケーション、人とのやりとりの型にはっきり「害悪」だと感じるレベルのものもあるかもしれない。ここまで書いておいてすぐには思いつかないのだけど、ひとつ言えるのは「集団のなかの強者のノリが異様なまでの力でもって弱者を苦しめるようなコミュニケーション」はそうだろう。そんなん、当たり前やんって思う人もいるだろうけど、これが常態化されると立派な型として多くの人が不思議に思わなくなって案外さらっと流通して、違和感なく馴染む。そして、きっと長らくそのように放置されてきたことが多い。無駄はまだいい。でも害悪な型は、案外、人が物理的に死んだりしない限り意外とレギュラーで、なんならポップな型として残り続けるから厄介だ。これはなんとかした方がいい。
うーん、話がまとまらなくなってきたので、いきなり終わります。