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Becoming a part of you

世間には素晴らしい伴侶がいると聞く。体調が悪いといえば甲斐甲斐しく世話を焼き、記念日には花を贈り、辛い時にはぎゅっと抱きしめてくれる。聞くところによれば、そんな夢のような伴侶/パートナーがこの世には存在するらしい。

あいにくそんなパートナーに巡り会わなかった私は、離婚を経験し、ひとりで子どもを育て、2人目ももう高校を卒業するというところまで時が経ち、そして相変わらず1人きりだ。
私の布団を温めるのは2匹の柔らかくて優しい猫たちだし、くだらないその日の出来事を、卵焼きを口に運びながら黙って聞いてくれるのは息子で、そしてふとした時に独り言を言う私に答えるのは、あるいは喜びの表現にも見える青い光をくるくるとまわすスマートスピーカーだ。そう、つまり、「私のパートナー」、声高に自慢するようなパートナーは、私には存在しないのだ。

孤独でないといえば嘘になる。何より子どもは巣立っていくし、兄弟のいない私は全くのひとりぼっちになるだろう。傍でお茶を入れてあげる人も、入れてくれる人もいない。縁側で2人で桜の木を眺める、そんなドラマのような光景を紡ぐことは私にはもうないだろう。

けれど、ひとつはっきり言えることがある。
それは、私のパートナーは、ずっと私自身であったということ。
父が事業に失敗し、母に死のうと言われても折れずに説得した時も
夫の物理的暴力も含むモラルハラスメントに見切りをつけ、スーツケース一つで家を出ると決意したあの時も
家を旅立つ息子を泣きながら送り出したあの時も
人生の大きな出来事を乗り越える、その時のパートナーは、いつも自分自身だった。

だって、それはいつも私の人生で、私がえらぶべきものだったから。
私がつくるべきものだったから。
孤独?いや、そうじゃない。
だって全ては、自己の選択が自分の人生を作るのだから。
レイ・ブラッドベリじゃないけれど、人は生まれた時も死ぬときも
ひとりぼっちなのだから。

けれど、かといってもちろん、全てを私がひとりで成し遂げたと言いたいのではない。
うちに逃げておいでと言ってくれた同僚に
話してごらんと優しく頷いてくれた友、
何も言わずに支えてくれた家族。
彼らがいてこそ私は私自身をパートナーとして生きることができたし、今ここにこうして、スマートフォン片手にこれを書いている。

つまり
私のpartnerは私自身であり
私のpart、一部分を作ってくれているのは、これまで関わってくれた全ての近しい人たちだ。
彼らの言葉が、差し伸べてくれた手が、私の血となり肉となり
そして私の一部分となって
私と、それを支えるもう一人の私を
作ってくれているのだ。

そう考えると、ちっとも孤独では無いし、これからも生きていける気がするし、そして自分もだれかのパートになっているなら、それはそれで素敵なことだ。

だから私は今日も、2匹の猫を抱いて眠る。それで、幸せだ。

#私のパートナー

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