
【怨みはないけどウラメシヤ #01】はじめてのジバクレイ【お題:お菓子カゴ】
しんしんと、と表現するのにちょうど良い具合に、雪が街を埋めていく。ひと所にこうしてじっとしていると、その様子が良くわかる。
クリスマスが近いのだろう。母親と手を繋ぎ歩く小さな男の子のもう片方の手には、長靴の形をしたお菓子のカゴが大事そうに抱えられている。賑やかそうな様子とは裏腹に、降り積もる雪は街の音をかき消していく。通り過ぎる車も、視界の悪さと路面の悪さからか、心なしかそっと走っている。信号で止まるたびに、雪が踏みしめられるぎゅっという音だけが聞こえる。
そんな中俺は、自分が今どうしてここにいるのか、何をしているのか、そして俺自身が何者なのか、わからないでいた。俺が俺のことを「俺」と呼ぶことすら正しいのかわからない。いわゆる記憶というものを失っているようだ。記憶がないということももちろんだが、それよりも俺を不安にさせることがある。
それは、体の感覚もない、ということである。
自分の手足を見ようにも、どこにも見当たらない。声を出しているつもりでも、喉が震える感覚もない。何より、地面と自分との間に、不自然な距離がある。地に足がついていないというやつだ。
多分、俺はすでに死んでいるのだ。
そしてこの何処とも知れない道路の脇に、ただゆらめくことしかできないでいる。
こんな自分に気がついたのがいつなのかも定かではないが、多分ほんの数時間前だったのだと思う。自分の意識を感じた頃にはまだ雪はちらつく程度で、空も明るかった。ぼんやりと空を眺め、雪を眺め、行き交う人と車を見ているうちに、だんだんと自分の意識の輪郭がはっきりとしていった。それと同時に体のない違和感に気がつき、状況を悟り始めた。
言うなれば夢を見ている感覚に近いだろうか。
何か必死に叫んでいるのに声が出ない感覚。必死に走っているのに前に進めない感覚。しかし周りの景色だけがやけにゆっくりと進んでいく、あのなんとも言えない不自由な感覚に近い。
喉が渇いたような気もするし、尿意をもよおしているような気もする。
しかし実際には何も起きていない。どんなにジタバタしようとしても、どんなに叫んだつもりでも、当然のように、通り過ぎる人がこちらに気が付くこともない。
そんな状況の俺が自分の死だけは自覚することができたのは、単に状況がそれを物語っているからである。
俺が浮いているのは道路の脇、電柱の傍らである。地面からは2メートルくらいの位置に目線がある感覚である。自分の足元の方をたどって見てみると、そこに俺の死を語るものがある。
電柱の根元には、雪がうっすらと被さったお供物の花が置いてある。道路の脇であるからささやかではあるが、いくつかの種類の花からなる束が、風で飛ばぬよう電柱にくくりつけられた紐に結ばれている。
時々見かけたことのある、死者への手向けの花束に違いない。
「見かけたことのある」という感覚があることが、唯一の救いだった。
これはつまり、俺が何者かということに関する記憶こそないが、俺が何かしらを経験してきた蓄積があるという証拠に他ならないからだ。もし、俺が何も見ても何も感じず、こうして考えることすらできないのであれば、俺は今この瞬間に生まれた存在だという可能性もあった。それでこんな所に浮かされているのであれば、もはやどうしようもなかっただろう。
ーーとはいえ、今の俺にだって何がどうできるというわけでもないんだけどな。
俺は声にならない声を出したつもりになって、つけないため息をつきながらまたあたりをぼんやりと眺めていた。
俺はいわゆる地縛霊というやつなのだろうか。歩くことも、宙を泳ぐことも叶わずただこの場にとどまる他にできることがなかった。
時々通り過ぎる人を観察して、何か声をかけようとしては何もできないということを繰り返しながら、ただ時間が過ぎていく。
しかし、寒さも何も感じない俺にとっては時間の感覚すらも曖昧で、意識を得てから今どれくらいの時間が経ったのかわからない。
見える範囲には時計もないし、雪が降り厚い雲が空を覆っているから月の位置もわからない。
ただじっとして、俺が今ここにいる意味をぼんやりと考える他ない。ただ考えるための材料である記憶もないから、考えようにも考えられない。最終的にやはりただぼんやりと当たりを見ていることしかできないのだ。正直な所、退屈だ。
死んで退屈なんて、これほど酷い仕打ちはないんじゃないかと落ち込んでいると、俺の足元に近づく人影があった。
白いダウンコートに白いニット帽を被った少女である。歳は10代だろうか。この暗い時間に一人で出歩けるということは、中学生にはなっているのだろうか。
少女は手に小さな花束を持っている。どうやら、俺に供えるために持ってきたようだ。残念ながらこの少女の記憶も無くしてしまっているようだが、どこか懐かしい気がしなくもない。俺に花を供えるくらいだから、少なくとも知り合いか下手すると家族だったかも知れないのだから、その感覚もあながち間違いでもないのだろう。
意識を取り戻して初めてのことであったから、興奮を隠しきれない。そもそも俺の姿は誰にも見えていないから、隠す必要もないのかも知れないが。
ーーなぁ、あんた誰なんだ?俺のこと知っているか?俺は誰なんだ?
俺は、出せないことを承知で彼女に話しかけてみた。一瞬彼女が反応したようにも見えたが、それは希望的観測だろう。どうせ寒さで身を震わせただけだ。誰とも触れ合えず、自分が誰ともわからない孤独が怖いだけだ。こうして自分のことを知っているであろう存在が現れただけでも救われるが、どうしても気がついてほしい、俺が何者か教えてほしいと、願ってしまう。
花を供えてからしばらくしても、少女はその場にしゃがみ込み手を合わせたまましばらく動かない。この寒い中、こんなか弱い少女にそんなことをさせているのが自分だということに、少々腹が立つ。本当なら俺が守ってやらねばならぬのに。
一瞬、「俺が守ってやらねば」と思ったことに、自分の記憶が手繰り寄せられる感覚があった。そうだ、俺はこの子を守らなければならなかったのだ。この子が誰で、俺が誰で、どんな関係性だったかは思い出せない。父親かも知れないし、兄弟かも知れないし、親友や恋人だったかも知れない。わからないが、その使命は確かに思い出した。
俺は必死で彼女に近づこうとした。
しゃがみ込む彼女は、上空から1メートルほど浮いた自分からは途方もなく遠く感じた。そもそも自分の体が今どっちを向いているのかわからない。
しかしふと思う。
そもそも体のない今の俺にとって、上や下という概念にどれほどの意味があるのだろうか?
そう考えた矢先、自分の視点がぐんっと動くのを感じた。
地面が急に近くなり、しゃがみ込む少女の顔の高さより少し上くらいの目線になった。
よくわからないが、この状態の自分の動かし方のコツのようなものがあるのかもしれない。生きていた時の感覚で動こうとしてもダメで、死んでからの自分の動かし方というのがあるのだろうか。もしそうなら死ぬ前に誰かに教えて欲しかった。
今度はゆっくりと意識をさらに地面の方に向けて、自分の存在しない体が沈むように意識してみると、少しずつさらに地面が近くなった。この位置なら、彼女の顔をちゃんとみることができそうだ。
手を合わせ祈る少女の顔を覗き込むと、どうやら彼女は泣いているようだった。
ますます心が苦しくなる。そんな顔で、泣かないでくれ。
ーーごめんな。
そう心でつぶやいた時、少女が急に顔をあげてこちらを見た。涙でグチャグチャの目を大きく見開いてこちらを見たかと思えば、立ち上がって当たりをキョロキョロと見渡している。
俺は今度は体が浮かぶイメージで、立ち上がった彼女の目線くらいの高さまで浮かんでいった。
あたりを見渡し終わって再びこちらに向き直した少女と、目が合った気がした。向こうからはこちらが見えていないだろうから俺の思い込みなのだろうが、そう感じてしまう。これもきっと、希望的観測だ。
しばらく少女の目を見つめていると、徐々に彼女の表情が険しいものに変わっていく。こちらを睨んでいるようにも見える。どうしたのだろうか。
「あなた、もしかしてゆうくんなの?」
急に少女が声を出して驚いた。そしてその驚きのあまり、また上空数メートルのところまで浮かび上がってしまった。今のはなんだ?俺に話しかけたのか?
「まって!行かないで!」
下をみると、彼女は確かにこちらの方を見て声をかけているようである。
意識を集中して、沈むイメージ。
俺はゆっくりと再び彼女の目線のあたりまで沈んでいった。
彼女の必死な顔が、こちらを確かに見つめている。
「お前、俺のことが見えるのか?声も、聞こえるか?」
俺は出ない声を出したつもりが、先ほどとは違って何か実態を持ったような感覚になって驚いた。彼女の返答はまだだが、確かに届いた手応えがあった。
そして彼女は何度か頷いた。
「うん、聞こえるよ!姿はちゃんと見えないけど…でもあなた、ゆうくんなのね?」
喜ぶ彼女に、一つ残念なお知らせを伝えねばならなかった。
「そうか、聞こえているなら嬉しい。でもすまない、俺はどうやら記憶がないんだ。俺が君の言う『ゆうくん』というやつなのか、俺にはわからないんだ」
そう言うと彼女は少し残念そうにしつつ、しかし先ほどの泣き顔とは違う凛々しい顔で答えた。
「そうなのね。でも大丈夫。その喋り方はきっとゆうくんだわ。きっと私があなたの記憶を取り戻してあげる!」
彼女は寒さなど忘れたかのように力強く答えたが、その頬はすっかり赤く、寒さを堪えているのがわかる。そろそろ、帰してやらねば。
「ありがとう。でも今日はもう寒いだろう。お家にお帰り」
何かを思い出すのか、嬉しそうな彼女の表情が、俺に心を取り戻させてくれるようだ。
「最後に、君の名前を教えてくれないか」
彼女は、中に浮いて実態のない俺の方へ両手を伸ばして言った。
「私は陽菜(ひな)。あなたのお友達よ。明日、必ずまた来るから。待っててね」
そう言って、彼女は名残惜しそうに去っていった。最後の曲がり角でまたこちらを見て、彼女の姿は見えなくなった。
俺はやはり死人らしい。生きていた時の記憶がなく、自分が誰だかもわからない。
しかし、どうやら怨みはないようだが、未練はあるらしい。
あの子のことを守る。それが俺の使命だということだけが確信できる。
俺が成仏せずにここに留まっているのは、きっとそのせいなんだろう。