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04.小さな嘘(お題:桃の缶詰)

気がつくと、火をつけたタバコがもうあとひと吸いというところまで短くなっていた。足元には、長いままの形で落ちた灰がまだ残っている。すっかりぼうっとしてしまっていた。

平日の昼間、ほとんどの人が仕事に勤しんでいるこの時間に、自分は何をしているのだろうと思う。実際、自分も仕事中には違いないのであるが、おおよその中年男性の働き方とはだいぶ違うということを自覚している。刑事という仕事は、なかなかに異質な仕事なのだと時々感じる。

息子はいつも間にか立って歩き、言葉を話し、先日ついに小学生になった。自分は息子の出産にも、幼稚園の卒業式にも、小学校の入学式にも出られなかった。たまに家に帰っても息子は寝ている時間だし、妻ももう起きて自分を迎えてはくれない。息子はきっと、自分を見ても父親だとは認識しないだろう。妻は自分をシングルマザーだと思っているに違いない。

それくらい、自分は家庭というものを蔑ろにしている。それでもいいと錯覚させるのが、刑事という仕事だ。自分の家庭を顧みなくてもいいくらいの使命であるという感覚が、まるで麻薬のように脳みそに刷り込まれているのだろう。

むしろ体が重たくなった気がする休憩を終えて、公園のベンチから立ちあがろうとしたとき、公園の入り口の方に何やら人影が見えた。

中肉中背、身長が180センチメートルある自分と比べると10センチほど低い、くたびれたカーキのコートをきた男が立っている。こちらにすたすたと歩みよりながら、男は声をかけてきた。

「中條さん、お久しぶりです。6年ぶりですか」

控えめな笑顔をしたその男は、菊野達弘(きくのたつひろ)といって、かつて新聞社の報道担当でよくうちの署に出入りしていた男である。

この男の笑顔はよく覚えている。愛想がなくて、その代わり嘘もない。この仕事をしていると、相手が信用できる人間かどうかを見分けることができるようになる。大抵の場合、愛想が良くて一見印象の良い笑顔を向けてくる男というのは、どこかに嘘がある。妻の尻に敷かれているような自虐ネタを口にしていて、その実、家庭では暴力を振るっているような男はごまんといる。

その点、この菊野という男のように、何の狙いも演技もない素の笑顔をする人間は、大事なことを隠すことはない。というよりも、そもそも隠さなければいけないようなことをしていないのだ。何も知らない人からするともしかしたら笑顔にすら見えない、ただの無表情にも近いその表情は、他人との距離感をそのまま顔にしたようなものである。

こういう男は、自分の人生を自分で生きるということを自然とやっている。他人に自分の人生を左右されるという気が一切ないのだ。だからこそ他人に気に入られようとか、そういった邪な心がない。そうすると、あの無表情にも近い、人間の本質が現れたような笑顔になるのだ。

菊野のような男と会うのは気が楽で、ほっとする。

「どうした、報道担当に戻ったのか?」

菊野は少し苦い顔をして、まさか、という仕草をしながら手に持った袋を渡してきた。

「ちょっと、たまたま知り合いが事件に関わってしまいましてね。これ、中條さんの好きなやつです」

菊野が渡してきたのは、桃の缶詰であった。

そういえば彼が報道担当だった頃、妻は産後で実家に帰っていて、自分は一人で生活をしていた。タバコとコーヒー以外あまり摂取していない自分に、この男はいつも差し入れで桃の缶詰を持ってきていた。体にいいとか何とか言っていたが、今思えば果糖の摂取のしすぎは体にいいとは言えないだろう。

「別に、好きとは言ってないぞ」

「そうでした?まぁ、体にいいし、息子さんももう幾つになりました?食べさせてあげてください」

そう言いながら、ちらほらと世間話をしたのち、菊野から本題が切り出された。

「それで、一つ聞きたいことがありまして。先日、この公園で主婦の方がお亡くなりになったでしょう?担当が中條さんだと聞きまして。その後、何かわかりましたか?」

「どうしてお前がそれを調べているんだ?知り合いってのは被害者か?」

菊野はことの経緯を話した。自分の取材予定だったのが被害者であること、報道担当の同僚から同じ日にもう一つ死体が出ていたことを聞いたこと、そしてその2つの事件にとあるキーワードが共通していること。

「白いマフラーの女、か」

調査のなかで、二人が死ぬ直前に同じ人物からメッセージを受け取っていたことがわかった。

寺島ゆきこ。この公園で死亡していた主婦、佐藤郁江(さとういくえ)とは高校の同級生で、さらに近くのマンションから飛び降り自殺をした小柴道夫(こしばみちお)とは、事件の前日まで付き合っていた。

始めはどちらの現場にもそれほど不審な点はなかったため事件性なしと判断されたが、その共通点が見つかってしまったので事件として扱われることになった。

しかし、この街の警察というのはとにかく動きが鈍い。人口が200万人近くいる都市であるというのに、考え方は全くもって田舎、とにかく大事にはしたくないという発想で大した人員が割かれることもなく、こうして自分と数人の部下で細々と捜査をしている。

何ともやる気を感じない上層部にほとほと幻滅しながら、たばこを一本無駄にしたところに、この男が現れた。

自分でも不思議だし不謹慎なことは承知だが、この事件に興味を持つ人間が自分以外にもいるということに、少し嬉しさを感じていた。

「実際のところ、どうなんですか?二人にメッセージをしてきた女性は見つかったんですか?白いマフラーってのはその女のことですか?」

「白いマフラーってのは、正直何もわからんな。寺島ゆきこに関しては、今所在を調べているんだが、どうにも足取りがつかめない。仕事をしていた様子もないし、どうしたもんだかな」

「やっぱりこれは殺人事件なんですかね?」

「死因はそれぞれ、飛び降りによる全身打撲と失血によるものと、もう一人は心不全だ。飛び降りの方は可能性は0じゃないが、心不全は難しいだろうな」

「そうなんですね。二人の死の直前に同じ人物からのメッセージ。そして白いマフラーの女という共通のキーワード。どうしても繋がりを感じちゃいますよね」

「その、白いマフラーの女ってやつだが、何か流行りものだったりするのか?一体なんなんだ」

菊野はどこか恥ずかしそうにしている。

「いやぁ、これは俺の同僚が言ってたことなんですけどね」

少しこっちに近づいて、小声で言う。

「そいつは、これは呪いみたいなものなんじゃないかって。言うんですよ」

「お前、それを俺に言うか?」

菊野と自分は、お互いに鼻で笑いながらまた距離をとった。
刑事である自分に、今回の事件は呪いですか?と聞く度胸があるこの男は、やはり面白い。そしてこの男が半分冗談、半分本気であることも感じているからこそ、自分もまだ興味を失わない。

「何でお前はそれが気になるんだ?」

「いや、僕も全くそんな話気にしてなかったんですよ。でも、実はさっきうちの祖父母の墓参りに行ってきたんです」

菊野は、自分に渡したものとは違うもう一つの袋から小さなビール缶を取り出して見せながら続けた。

「この現場が近くて中條さんが来てるって話も聞いていたんで、お盆に行けなかった墓参りをしたんですよ。で、ひとしきりお参りし終わってここにくるまでのほんの10数分の間だったんですけどね、見てしまって」

菊野はそこで話を止めると、わかるでしょうといった具合にこちらを見た。自分も仕方なしに答える。

「白いマフラーの女を、か?」

「そうなんです。おかしいでしょ?この時期に。9月に入ったとはいえ、まだ25度以上あってマフラーをしているなんて。もちろん何か理由があってしている人がいたとして、このタイミングで出会うなんて、どうしてもおかしいです」

「で、その女はどこへ?追わなかったのか?」

菊野は今度はちょっと怯えたような表情になった。

「それが、見失ったんです。この山道でしょう?一本道だし、脇道もない。でも坂とカーブがあるから、距離が開くと確かに姿は見えなくなることもあります。一度それで姿が見えなくなって、慌てて距離を詰めたら、もういなくなっていました」

この手の怪談めいた話は、大抵事件の関係者で何か知られたくないことのある人物が、自分は頭がおかしくて正常なことを言えない、覚えていないことをアピールするときに話すことである。そういったことはよくあることだが、今目の前で話している菊野という男には、自分にそんな話をする理由がない。つまり、嘘をつく必要はないのである。

「まぁ、その話が本当だったとして、だがそれでも事件に関係あるとは言えないな」

「そりゃあそうですよね。ただ、どうしても気になっちゃいます」

菊野はまた話を聞きにくると言って、公園を去った。

まだ虫の鳴く声がうるさい山の中の公園で、再び一人、ベンチでタバコをふかしている。ほとんど吸わずに蚊取り線香のように時々ぽろっと落ちる灰の気配を感じながら、ぼうっと考える。

正直、自分はもう窓際に追いやられた人間である。こんな事件ともよくわからない案件しか回されず、無能な数人の部下をあてがわれ、毎日時間を潰させられている。そんな張りのない仕事でも、家庭を顧みないという事実を作ることによって、まるで自己犠牲に生きる正義のヒーローを気取っている。

つくづく、自分という人間が愚かに見える。

菊野は愛想もないが、どこか純粋にこの事件を追っているように見えた。あんなふうに自分も動けたら、何か変わるのだろうか?

ベンチの横に置いた袋に、桃の缶詰が見える。
そうだ、桃の缶詰は、息子が好きだと言ったから、菊野は自分に差し入れしてくれるようになったのだ。

でも、当時妻と息子は実家に帰っていて、自分は息子の好きな食べ物など一切知らなかった。だが菊野に息子の好きな食べ物を聞かれて、咄嗟に自分の好きな桃の缶詰と答えたのだ。

自分は、そんな小さな嘘をつく人間だ。

再び、火をつけたタバコが燃え尽きようとしていた。
薄暗くなり始めた公園を後にしようと立ち上がった時、公園の入り口にまた人影が見えた。

そこには、白いマフラーをした女が立っていた。

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