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32.『32』(お題:強風)
春という季節は良いものである。北国の長い冬を乗り越えたという達成感がよりそう思わせるだろう。それに、本州の春よりも1ヶ月以上遅れてくるあたりにも、なんとも間抜けな風情がある。
5月も半ばになってようやく手放しで春を喜べるのだから、そう感じるのも無理もないだろう。
この季節になると、こうしてオープンテラスのあるカフェなんかで原稿を書くのが心地よい。作家だと名乗るとよく引きこもりがちだと思われるが、実際は家にいない時間の方が多い。
執筆もそうだが、やはり情報をインプットしないことにはアウトプットはできない。知らない土地、知らない店、知らない人と関わることで、見えないものも見えるようになってくる。見ず知らずの人に平気で話かけられるのも、ただコミュニケーションが好きということではなく、その関わりの中で見えてくる人の奥底の心理というものに興味があるからに他ならない。
急に声をかけれられてガチガチに警戒する人もいれば、にこやかに返してくる人もいる。しかしにこやかだからと言って警戒していないということでもなく、その目はしっかりとこちらを捉えていたりする。人は見かけだけでは判断できないとはよく言ったもので、それもそのはず、人はなりたいものになろうとするから、人に見せているのは本当の自分ではないのだ。そもそも本当の自分なんてものを自分で理解できている人がそもそもいないのだから、人を判断するというのがいかに難しいことなのかわかるだろう。
それでも、わずかなコミュニケーションの中で見えてくる仕草や言葉に本質は宿っていると思うと、ささやかなコミュニケーションをとりたくなるというものである。
春というのはどうにも風が強いのが難点である。
風でノートのページが勝手にめくれていくのを手で押さえながら、あたりを見回す。
街中にある商業兼オフィスビルの一階にあるカフェのテラス席からは、近隣で働く人たちや買い物をする婦人たちを観察することができる。趣味は人間観察だなんていうと安っぽく聞こえるが、事実そうであるから仕方がない。
電話口に向かって丁寧にお辞儀をするスーツの若者がいる。取引先が相手なのだろう。かしこまった姿勢で電話をしていると、相手にもその姿勢が伝わるから不思議なものである。逆に電話の向こうの人物の姿勢が悪く感じたのなら、自分がその程度にしか扱われていない証拠だと思うと、身が引き締まる気持ちもある。
テラス席の前は大きな舗装広場になっていて、隣のビルとの間にいくつかベンチもある。ちょうどお昼時で、そこで弁当を食べる人もちらほらと見える。
風の強さを警戒してか、カラスを警戒してかわからないが、一口食べるたびにおにぎりを丁寧に包み直して巾着袋に戻しながら食べている女性がいる。先ほどから見ていると、かれこれ十分は一つのおにぎりを食べるのに費やしているようだ。一口食べては包み直して巾着にしまう。そしてお茶を一口飲んではほっと一息つく。その繰り返しを見ていると、彼女にとってのお昼ご飯というのが1日の大事なリズムになっているのだろうと察しがつく。職場を一時離れて、自分の呼吸を取り戻しているのだろう。
テラス席の方に目を向けると、すでにランチを食べ終わった婦人二名が、コーヒーを飲みながらおしゃべりをしている。会話の内容は聞こえないが、表情と仕草から何かしらの愚痴を言っているのがわかる。大方旦那の愚痴か、すでに愛想を尽かしているならパート先の上司がターゲットだろうか。荷物をみるとそれなりのブランドを身につけているあたり、パートには出ていないかもしれない。ともすれば親戚や嫁の愚痴だろうか。
外で執筆をしていると、こうして周りを見ているのに時間を取られて作業が捗らないこともしばしばである。しかしそれも織り込み済みで覚悟してきているので問題はないが、いかんせん今日は風が強い。暖かくなってきたとはいえ、この風の強さではずっと外にいるのも厳しく感じる。
そろそろ帰り支度でもしようかと思った時に、座席の近くに人影が寄ってくる気配がした。
「ここ、ご一緒しても良いですか?」
聞き覚えのある女性の声がした。
見上げると、そこには見覚えのない顔の女性がいる。
「良いですか?」
まるでクイズを出してくるかのようにその女性はもう一度声を発した。
「星野くんか」
ニコッと笑って彼女は席に着いた。
「座っていいとは言っていないが」
「お久しぶりね。一年くらいかしら」
彼女はこちらの話を無視して続けた。
「驚いたかしら?随分変わったでしょう?」
確かに、かつての彼女の面影はほとんどない。顔を整形したのだろう。
「色々と準備が大変だったのだけれど、ようやく整ったから」
店員が彼女の分のコーヒーを持ってきた。事前に頼んでいたものだろう。
「最後にご挨拶をと思って」
コーヒーにミルクと砂糖を入れて混ぜながら、彼女は何か言いたげである。
「別に、どこに行くのかとは聞かないよ。どうせあちこち行くんだろう」
彼女はふふと笑いながら、嬉しそうにしている。
「そう!どうせなら海外かなと思っているわ」
本来ならば彼女は捕まっていることになっているはずなので、おそらくまた誰かになりすましているのだろう。パスポートなんか、そう簡単に偽造できるものなのだろうか。
「なんか心配そうね。大丈夫よ。抜かりなくやってるから」
そうだ、彼女もまた僕を模倣していた1人であった。多少のことなら僕の考えていることを見通してくる。
「それにしても、君たち二人には困ったものだよ」
「二人って、私と菊野くんのこと?私より、菊野くんの方でしょ。困るのは」
彼女は淹れたてのコーヒーを躊躇なく飲んでいる。ミルクを入れたとはいえ、まだ熱いだろうに。
「僕からしたらどちらも同じさ。さっさと僕から離れてくれればいいのに」
「あら、それはそれで寂しいくせに。でももうほんとに、私はこれで最後だから」
いつから彼女はこうなってしまったのだろうか。
僕と生徒会で一緒になったことが原因になっているのならば、多少の責任は感じてしまう。少なからず今目の前にいるのは犯罪者であり、僕はそれをほとんど知った上で見逃そうとしている。
「あなたにしては珍しく、真面目なのね」
「僕はいつだって真面目さ」
彼女の口から聞いたわけでもなく、あくまでも僕が予想しているだけのことだが、残念ながらそれはほとんど真実であると確信もできてしまう。それは相手が星野葵であり、僕の思考をトレースできる人間だからだ。つまり、僕が思いついたことが、彼女の思考なのだ。
彼女は自分が寺島ゆきこになりすましたのと同じように、誰かを自分になり変わらせたのだろう。そしてその人を身代わりに差し出し、自分はまた別の誰かになって、この地を離れようとしている。一人の人間を傀儡にするくらいなら、彼女には容易いはずだ。だが流石に日本の警察をいつまでも騙せるわけもないと自覚しているのだろう。ただ残念なことに、まだこのことは明るみになっていないはずだ。
「ほんと、風間くんと話すのって、つまらない。全部わかってしまうのも退屈ね。まるで…」
「袋とじみたい、かい?」
彼女はやはり退屈そうな顔をして、さっさとコーヒーを飲み干してしまった。
「思ったんだけど、私袋とじって開けたことないのよね。あれって男性向けのものばかりじゃない?どうして男って袋とじみたいなものに期待するのかしら」
「僕のことは理解できても、その辺の男のことはわからないんだね」
僕の皮肉を真に受けたわけではないだろうが、来た時と対照的に不機嫌そうに彼女は立ち上がった。たぶん、まだ彼女も僕に同族嫌悪を抱くのだろう。そしてきっと、そのことを最後に確かめにきたのだ。
「それじゃあ、さよなら。楽しかったわ」
そう言い残して、さっさと彼女はいなくなった。
ちょうど陽が真上に来たくらいの時間だろうか、風は依然として強く冷たいが、日差しのあたたかさが心地よい。
僕は彼女が残していったコーヒーカップも一緒にカウンターへ下げ、帰路に着くことにした。
帰り道、小さな書店を通りがかったので寄ることにした。当然ながら、書店巡りも日課の一つである。
新刊のコーナーを眺めていると、一冊の本が目についた。
『32』
と数字だけのタイトルに目を惹かれたが、注目すべきはその著者であった。
『菊野達弘』
あの男も、愚直である。
彼女と同じように、一度やり切らないと前に進めないのだろう。
その本を手に取ってみると、表紙にはやはり白いマフラーの女が描かれていた。
彼が記事を書くプロとはいえ、小説を書くのは初めてである。中身はおそらくまだ稚拙なものなのだろうが、それでも一定の成果は上げるのだろう。
僕の蒔いた種自体はまだ芽吹かないが、確実に土を肥やしているはずである。その土にこの本が辿り着けばきっと。
僕はその本を買って、改めて帰路についた。
今度はどんな本棚の並びにしようか、楽しみである。