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02.思い出の匂い(お題:芋掘り)
くたくたに疲れている。
帰宅して、子供達を風呂に入れ自分もそのまま風呂を済ませて、夕飯を作り子供達を寝かせた。自分もそのまま寝てしまいそうであったがどうしてもまだやることがあり、1人起きてきてリビングのソファに座っている。やることはあるのだが、疲労した体はまだ動く覚悟をできていない。眠気覚ましに入れたコーヒーが、もう飲みやすい温度になっている。
ただいつもと同じ1日であればこんなにも疲弊していないのだが、今日は特別に疲れる1日だった。幼稚園に通う息子の親子遠足で、芋掘りに行ったのだ。市内からバスで40分程度のところのジャガイモ畑で、小一時間芋を掘り続けた。自分も子供の頃に行った記憶があったが、大人になった自分がこんなにも芋掘りに夢中になるとは思わなかった。子供そっちのけで土を掘り返していたら、「僕の掘った穴を埋めないで!」と息子に怒られるほどに夢中だった。
コーヒーの入ったマグカップに伸びる手には、まだ少し土の色の残った爪が見える。心なしか、家の中にも土の香りがまだ残っているようにも感じる。
幼い頃は祖母の家が田舎にあったので、夏休みになると遊びに行って、朝から晩まで泥だらけになったものだ。近所の男の子たちに女子一人混ざって、虫取りや泥団子に勤しんだ日々が懐かしい。
その頃は毎日土の匂いを感じていたような気がするが、大人になってみると土の匂いを感じることなどほとんどない。都会に住んでいると、外を歩いていて感じる香りなんで、排気ガスかどこかの家の換気扇から流れてくる夕飯の匂いくらいである。
匂いというのは記憶を強くフラッシュバックさせる。
土の匂いには、幼い頃の無邪気な好奇心と毎日のワクワクした気持ちがついてくる。自分の息子を見ていても、その無邪気さやらは感じるが、自分にはもう関係のないものと思ってしまう。旦那もすっかりと少年心を忘れて、息子の将来のために自分を殺して仕事に懸命になっているし、日常の中で無邪気な気持ちになることなどほとんどなかった。
そんな私でも、都心からほど近いとはいえ畑の中に入って、土にまみれただけでこんなにもノスタルジックな感情になるとは、正直思わなかった。あんなにも子供のように無邪気になれるほどの強烈な匂いの力を思い知った。
そんなことがあった今日であるから、いつも以上にくたくたになったのだ。
ただ体力を失ったのではなく、大人になって忘れていた何か大事なものを見つけてしまった高揚感と、再び舞い戻った現実とのギャップの激しさに疲れたのだ。
今やるべきことというのも、副業でやっているデザインの仕事で、心許ない旦那の収入を補うためと、かなり現実的なタスクである。
我を忘れて楽しむような、無邪気な行動とは程遠い。
それでも可愛い我が子のため、疲れた体に鞭打って踏ん張るのが母親である。
私は常温になったコーヒーを飲み干して、もう一杯新しいコーヒーを用意したところで、パソコンに向き合うことにした。
何時間経っただろうか。
作業がひと段落して、かたまりつつあった首と肩をほぐしながら顔を上げた。
子供のように無邪気にとはいかないが、仕事というのもある程度自分の集中力を捧げることができるのだと気が付く。こうやって、子供の頃の不可解な情熱を何かに置き換えながら、一定の満足感を得られるようになるのが大人なのだろう。
3杯目で飽きてしまったコーヒーの残りを眺めつつ、携帯電話で時間を確認する。
時刻は深夜1時50分。
かれこれ3時間近く作業をしていたようだ。
芋掘りの1時間と比べて、重たくのしかかるような疲労感がある。
コーヒーを下げて水を飲もうとキッチンに向かう。片付け忘れていたシンクの隅の残飯入れには、晩御飯でカレーに使ったじゃがいもの皮が捨てられていた。そこから、またあの土の匂いが漂ってくる。
もう、どうしたって自分の心が動いてしまったことを考えられずにはいられなかった。
このまま、ただ毎日をこなしていくだけの人生があと何年続くのか。もっと自分が夢中になれる人生を送りたい。そんな気持ちを、無視できなくなってしまった。
30代も半ばに差し掛かると、そんな子供のような気持ちで行動している人など周りにほとんどいなくなって、家のローンだ子供の学費だと、そんな話をする友人しか周りにいなくなる。
ただ一人だけ、頭に思い浮かんだ友人がいた。
寺島ゆきこ。
小学校からの同級生で、高校を卒業するまで一緒だった友人である。
すごく仲が良かったというわけではなく、普段一緒にいるグループにもいなかったゆきこは、どちらかというと一人で物静かに本を読んでいるような子であった。
そんなゆきことは、私が結婚してすぐの頃、今から6年ほど前から時々会うようになった。
きっかけは、私が息子を身籠った時に通っていた産婦人科で看護師をしていたゆきこに声をかけられたことだった。最初私は気が付かなかったが、会計を済ませて帰るときに窓口で「苗字、変わっていると思うけど、斉藤さんよね?」と声をかけられて、ゆきこだと気がついた。
それから時々、子育ての相談や他愛もない話をするのに会うようになったのだが、その時いつもゆきこが言っていた言葉を思い出した。
「わたしね、つまらない人生だけは、嫌なの」
最初にその言葉を聞いた時には、私のことを何か否定されたのかとドキッとしたが、ゆきこには他意はなく、純粋に自分の人生の話をしているだけだった。
看護師という仕事の関係上、どうしてもプライベートの時間を取れなかったゆきこは、そのうち看護師をやめて、フリーライターのような仕事をするようになった。
自由と刺激を求めて仕事を変えたゆきこを、羨ましいと思って見ていた。
そして、その仕事をするようになってから、少しずつ会える機会が減っていって、ここ1年くらいは会っていなかった。
きっとゆきこは、今もどこかで子供のように無邪気に楽しみながら生きているのだろう。
私も、これから同じように生きることができるだろうか?
そんな問いかけを自分にしてみたものの、きっと明日には忘れてまたいつもの日々を過ごすのだろうと、ため息をつきつつリビングに戻った。
リビングに戻ると、テーブルの上に置いてあった携帯電話の画面がぱっと光ったのが見えた。深夜で音は出ないようにしているが、何かの通知が来たようだ。
私は携帯電話の通知をみて、ハッとした。
ゆきこからのメッセージが来ている。
私がゆきこのことを考えていたら本人からメッセージが来た。単なる偶然なのだが、今日の私はまだ子供の頃の無邪気さの尾を引いているから、どうしてもワクワクせずにはいられなかった。
私は興奮を抑えながら、メッセージを開いた。
そこには、思っていたのとは違う、しかしどういう感情になっていいかもわからない言葉があった。
「おひさしぶりです。急に、そして夜分遅くにごめんなさい」
「私、最後にあなたに会いたいと思ったのだけれど、どうやら難しいみたい」
「もし今後あなたの前に私が現れても、それは私じゃないから、信じちゃだめよ」
「それと、白いマフラーの女には気をつけてね」
メッセージはそれだけだった。
意味を理解することはできなかったけど、どうやら別れの言葉であることだけは理解ができた。
わたしは、自分の感情がどう動いているのかもわからないまま、ただただ激しくなっていく心臓の鼓動を聞いていた。
呆然として、どれくらいの時間そのままだったのかわからないが、私を現実に引き戻したのは、突然鳴り響いたインターホンの音だった。
こんな時間に、いったい誰が、何の用でインターホンを鳴らすのか?
こんな時間の来客に反応するのは怖かったが、とりあえずインターホンの画面だけは確認することにした。
薄暗い、一軒家の玄関先の映像に写っていたのは、見知らぬ女性の姿だった。
私はなぜか、鼻の奥にまたあの土の匂いを感じていた。