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01.夜風(お題:深夜2時)
じっとりと絡みつく暑さに堪えきれず目を覚ました。北国の9月はこんなにも暑かったかとうなだれながら、枕元の携帯電話を探す。
手探りで掴み画面を触るも、反応がない。どうやら充電を忘れてバッテリーがなくなっているようだ。そして画面が暗いままということを認識できたことで、部屋のあかりが点いたままだということに気がついた。
そうだ、携帯で動画を見ながら、そのまま寝てしまったのだ。
携帯電話に充電プラグを挿し、しばらく間が空いてからブルっと一度震えたことを確認して、ベットから起き上がった。蒸しきった空気に耐えられず、窓を開けるためである。
ベランダに面した窓を開けると、部屋の中とそれほど変わらない重たさの空気が一瞬流れ込んできた。爽やかさや心地よさとは程遠い。しかし9月になってエアコンをつけるのも癪であるし、このわずかな空気の流れをありがたく感じる他ない。
少しでも不快な空気から逃れるために、網戸を開けベランダに出た。少し埃っぽいサンダルに足を入れながら、ベランダの手すりにもたれかかる。
都会の夜は明るい。
僕が住んでいるこの部屋は歓楽街からほど近いところにあり、深夜でも、下手すると朝方まで道を歩く酔っ払いたちの声が聞こえる。
街灯や建物の灯り、車のヘッドライトも絶えないので、街全体が淡く光を帯びているように見える。特に今日みたいに厚い雲がかかっているときは、雲が反射板のように街の光を照らし返してくるから、余計に明るく感じる。
向かい側の歩道には、二人組の女性が大きな声で笑いながら歩いている。相当に酔っ払っているようで、互いにもたれながらもなんとか前に進んでいる。この街では当たり前の風景だ。
決して心地よくない生ぬるい風と、静けさと暗がりのない都会の夜。
これほど夏の終わりの風情を感じられない夜はないだろう。
未練がましくダラダラと、ただゆっくりと時間だけが流れていく。
次第に僕は、昨日のことを思い出していた。
「あなたって、袋とじみたいな人ね」
去り際にひと言、彼女はそう言った。
別れを告げられたその時には何も考えられなかったが、あれはきっと僕にがっかりしたということだったのだろう。でもこちらからすると、勝手に期待して勝手にがっかりしたと言われても、知ったことではない。
そうやって少し強がってみたものの、やはり彼女が去ったあの瞬間のことを思い出すと、言いしれぬ悲しみと切なさが溢れてくる。
こういう時の感情はなんとありきたりのなのだろうと思うが、それでもそうとしか表現ができないほどに、心が疲弊している。
彼女が去ったことは、何も突然のことではなかった。
急に予定を断ったり、風邪を理由に部屋に入れてくれなかったり、連絡しても返信が遅かったり、あからさまに彼女の心が離れていることはわかっていた。
それでもそのことには気がつかないふりをして、終わりの瞬間をずるずると引き延ばしていただけだった。
だから彼女が「好きな人ができたから別れて欲しい」と告げられた時も驚きはなかったし、ようやく諦めがつくとホッとしたところもあった。
それでもやはり、事実として別れが突きつけられると、こんなにも苦しいのかと痛感する。
僕のどこに問題があったのだろう?
「袋とじみたいな男」と言われたが、僕のどんなところにがっかりしたのだろうか?
こんなことを言っていたら、「そういうところよ」と言われるのだろうか。きっと言われるだろう。答えはわからないが、自分が間違っていることだけはわかるというのは、なんとももどかしく、情けない。
一瞬、少し冷たい風が吹いた。
爽やかさを感じると共に我に帰ると、コツ、コツというヒールの音が向いのビルに反射して僕の耳に届いた。
ベランダから下を見下ろすと、向かいの歩道を歩く1人の女性の姿があった。
僕の部屋は5階で少し距離があるからよくは見えなかったが、この蒸し暑い夜にマフラーをしているように見えた。薄手のストールだったらまだわかるが、マフラーは季節違いもいいところである。見間違いかとも思ったが、マフラーの色は明るく、遠くから見てもそれは街頭に照らされてはっきりと見えた。
違和感を覚えつつ、再び吹いてきた生ぬるい風から逃げるように、部屋に戻った。
すると、充電していた携帯電話の通知が「ぽーん」と鳴った。
枕元に置いてある、充電プラグを挿したままの携帯電話の画面が光っていて、メッセージが届いていることがわかった。
メッセージを開くと、それは昨日別れた彼女からのものだった。
「夜遅くにごめんね。1つ、あなたに言いそびれたことがあるの」
少しの期待と、何を言われるかの不安を抱きながら、画面をスクロールした。
「もし、あなたがこの先私のことを街で見かけたとしても、それは私じゃないと思って」
他人のふりをして、関わらないでくれということか。寂しさが込み上げたが、次の一文が目に入った瞬間にその寂しさは消え去った。
「あと、白いマフラーをした女をみたら、決して近寄ってはダメよ」
白いマフラー、という言葉が、先ほど見た女性を連想させた。
なぜ彼女はこんなことを言うのだろう?
近寄るも何も、冬であれば白いマフラーをした人などたくさんいるだろうし、まだ夏が終わりきっていない今の時期にマフラーというのも不思議である。
そして何よりこのタイミングで僕はマフラーをした女性を目撃してしまっているということが、彼女のこのメッセージを意味深にしている。
僕は、返信文を考えるよりも先に、外に出るために着替え始めていた。なぜだか、さっき通り過ぎた女性を追いかけねばならないという衝動に駆られていた。
さっさと着替えを済ませて、とりあえず鍵と財布と携帯電話だけもって部屋を出た。
携帯電話を持ったついでに画面を見ると、時刻は深夜2時であった。