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13.登場人物(お題:おいしいココア)
喫茶店の雑音は、程よい集中力を生んでくれる。
適度に集中して作業は捗るし、それでいて周りのテーブルの些細な会話の切れ端が、想像力を掻き立ててくれる。こうして書き物をしている時には、集中しすぎて息切れすると復帰するまでに時間がかかるから、疲れ切る前に息継ぎができるこの環境はとても適している。
それでも、ふと顔を上げてアイスココアを飲もうとした時の、コップから滴る水滴の量と、溶けた氷の水が作った透明な層が、俺の集中していた時間を物語っていた。
せっかくこの店のココアはおいしいのに、勿体無い。
上澄みが混ざってココアが薄くならないように慎重にストローを口に運びながら、店内の様子を見る。
縦長の店内で、俺が座っているのは入り口近くの1〜2人席で、入り口を背にしているから店内の他の客の様子はよく見える。
すぐ右手前には、50代くらいの男性が二人向かい合って座っている。先ほどから、父親がボケたとか、相続がどうという話をしている。揉めている様子ではないが、どこかお互いに探りあっているような、気を遣い合っているような風である。俺と同じ向きで座っている方は「あにき」と呼ばれているから、こちらが兄で向こう側に座っているのが弟なのだろう。兄の方は上下作業服で、弟の方はグリーンのネルシャツだ。兄の方が家業をついでいるのだろうか。
お互いに「ゆみさん」「たかこちゃん」と呼ぶ女性は、おそらくそれぞれの奥さんのことだろう。ところどころで「でも、ゆみさんはそれゆるさないだろう?」と、お互いを牽制し合うのにその名前は使われているようだ。
その二人の座るさらに奥には、若い男女三人が座っていた。手前には男性が一人、奥に男女が並んで座っている。並んで座る男女が恋人同士なのかはわからないが、男二人が熱心に話す中で女性はスマホをいじっているあたり、ある程度の付き合いの長さは伺える。
それほど派手な格好はしていないが、時々盛り上がって聞こえてくる言葉の端に多少の荒さが見えるので、月並みのヤンチャをしてきた人たちなのだろうと感じる。
ほとんど会話は聞こえないが、さほど興味も湧かない。
その理由は、さらにその奥、突き当たりの席に一人で座っている男にある。その男はどうやら俺と同じく何かを書いている様子で、しかも俺と同じくこうして店内を時々観察しているようなのである。俺はその男と店内を見回すタイミングが被らないように、視界の端で常に男の様子を見てしまっていた。
カラン、と音がなり、客が一人入ってきた。
薄手のコートを羽織った女性が、俺の前の1〜2人がけの席に、俺に背中を向けるように座った。俺はその女性よりも、その女性の挙動を観察している男の様子を見ていた。
男は思ったよりもずっと堂々と女性の姿を目で追っていた。ちらり、というレベルではなく、ほとんどまっすぐ見つめているくらいである。
しかし女性の方は特に気に留めることもなく、店員に注文をして鞄から取り出した本を読み始めたようだ。こちらからではどんな本かはわからなかったが、一瞬見えた様子からはブックカバーがかけられていたようであるから、男も何の本を読んでいるかはわからないだろう。
男は興味深げにしばらく女性を見つめたあと、カップの飲み物を一口飲んで、何かを書き始めた。それが今の一連の観察に関するものなのか、全く関係のない自分の書き物なのか、今書き始めたのか続きから書いているのかわからないが、その書き物をしている手元の動きは、なぜだかとても美しく見えた。
俺は自分の手元を見た。
ノートパソコンの上に自然と置かれた手を見て、あの男との違いに気が付く。
あぁ、あの男は紙とペンを使っているのか。しかも、万年筆を使っている。
昔から「書く」ことに憧れがあった。小説を書きたいとか、何か書きたいものがあるわけではなく、「書く」という行為そのものが、なぜだか好きだった。
小さい頃、年末が近づくと母親が大量の年賀状の宛名と挨拶を書くのだが、その書く様子をずっと横で張り付いて見ていた記憶がある。母親は特別字が上手というわけではなかったが、ひらがなもおぼつかない当時の俺からしたら、漢字を淡々と書いている母親の手元はとても美しく憧れるものがあった。
憧れこそあれど、それに対して特別な技術習得をしなかったので、俺は今でも字が汚いし、今となってはパソコンで書き物をしてしまうので、字を書く機会がそもそもほとんどない。
時々何かの申し込みをするときなどに住所を書いたりすると、びっくりするくらいに字が書けなくなっていることに気が付く。自分の住所ですら漢字があやふやになってしまうことがある。
書くことからしばらく離れていたが、遠目でみたあの男の書く様に、なぜだかワクワクしていた。
今日の帰りに、少し良いノートとペンを買ってみよう。
少しの休憩を挟んで、俺は再びノートパソコンのキーを打ち始めた。
今書いているのは、今度の年末にある舞台の脚本だ。
大学時代からの友人たちと細々と続けている劇団の、毎年恒例の年末公演の準備が始まっていた。俺は脚本と演出を担当していて、キャストの集まり具合によってはちょい役で役者としても舞台にも立つ。
最初は友人と2人で始めた劇団で、同じように友人同士で集まって始めた他のチームと合流する形で発足した。
大学時代はそれなりに精力的に活動をして、中にはプロの役者を目指して大学を中退してアクターズスクールに通うようになった奴もいた。こちらの劇団はその頃に抜けてしまって、今は東京に行って役者志望を続けている。
俺はというと、大学は普通に卒業をして就職もして、地元の出版社で普通に働いている。一緒に劇団を始めた友人も、やはり普通に公務員をしている。
それでもなんとなく芝居を続けていて、年に2回くらいは公演をしている。何か夢があるわけでもなく、でも情熱がないわけでもなく、俺たちにとってはちょうどよく人生を楽しむ趣味となっているのかもしれない。
こうして脚本を書いていると、日々出会う取引先や会社の上司同僚後輩たちが、自分の作品に明らかなエッセンスとして影響しているのがわかる。今書いているキャラクターなんて、どう見ても今の職場の同期の長谷川そのままである。基本的には明るくハツラツとしていて、上司にも後輩にも好かれる男だ。飲み会や取引先との付き合いもガンガン行くし、社内でもとにかく動き回っている印象がある。それでいて、仕事にも熱心に取り組んでいるから、周りからの信頼も厚い。
同期の俺からすると、どうして仕事に熱心になれるのかわからないが、長谷川を見ているとこちらまで何だか心地が良くなる。
同年代の仲間と飲んだりすると、大抵職場の愚痴やら不満が出てくるが、俺の場合はそれほど愚痴るようなこともない。体質こそ古い業界だから、残業やらそういったものは当たり前にあるし、面倒な上司もいないことはないが、同期の長谷川の嫌味のない元気が、こちらにも良い影響を与えてくれているのだろう。
とはいえ、俺はあいつほど熱心に仕事をするわけではなく、こうして趣味の方に没頭するわけだが、とにかく、そんな身近にいる長谷川という男のおかげで脚本の進みはなかなか悪くない。今度飯にでも誘ってみようか。もう少し長谷川という男の情報が欲しいと思ってしまう。
またしばらく脚本を書いて顔をあげると、店内の様子が変わっていた。
先ほど相続の話をしていた男性兄弟はいなくなり、代わりに同じくらいの年代の女性が二人座っていた。こちらは流石に、姉妹ではないだろう。
その奥の男女3人組はさっきと全く変わらない構図で、きっと話している内容も一緒なのだろうと勝手に思ってしまった。女性は相変わらずスマホをいじっている。
俺の前に座った女性も、こちらからは様子はわからないがおそらくまだ本を読んでいるのだろう。時々ページを捲る音が聞こえる。
そして、奥に座っていた男。彼はもうそこにはいなかった。荷物もないから、俺が脚本を書くことに集中している間に帰ってしまったのだろう。
彼はパソコンに向かう俺のことも観察していただろうか。きっと、かなり堂々と見ていたのだろうが、俺には気がつけなかった。
俺は、ココアがもうほとんど残っていないことに気がついた。
この店のココアはすこぶるうまい。程よい甘さと風味の良さがたまらないのだ。俺はこの店でコーヒーを飲むことがほとんどない。
店員を呼び、ココアのおかわりを注文したついでに、奥の空いた席に移動する許可をもらった。実は、いつもはあの男が座っていた一番突き当たりの席に俺も座っていたのだ。今日はあの男が先に座っていたので仕方なくここにしたが、あの突き当たりの席が一番店内をよく見渡せるので、本当ならあの席に座りたかった。
俺は席を移動し、店員さんがココアを運んでくれた。
やはり氷の溶けないうちに飲むと香りが全然違う。あっという間に半分ほど飲んでしまった。
ふと、座席の脇に何かが落ちているのに気がついた。あの男の忘れ物だろうか。
俺は手を伸ばしてその何かを拾い上げた。
それは、タイトルのない白い本だった。
カバーを外した本かと思いきや、カバーが真っ白な本である。
中身を見てしまおうかどうか迷っているうちに、スマホの通知が光るのが見えた。今日は仕事の休みをもらっていたが、念の為仕事用のスマホも持ってきてはいた。
通知を開くと、同期の長谷川からのメッセージだった。
「山中先輩がいなくなった。今から探しに行くから、手伝ってくれ」
俺は、少し考えてから、自分が何も考えていないことに気がついた。一瞬思考が止まっていたのだ。
よくわからないまま、残りのココアを飲み干して、店を後にした。