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24.いくつかの出会い(お題:地球儀)
「その街のことが知りたければ、その街一番の図書館に行くことだ。」
かつて父親に言われた言葉を、深見七恵(ふかみななえ)は思い出していた。父親として、そして警察官として尊敬する人の言葉は、いつも困った時の支えになる。
例の一連の事件で行き詰まっている七恵は、改めてこの街のことを知ろうと図書館を訪れていた。事件に関連することばかりを調べていても行き詰まるなら、事件から少し離れた情報を集めるのも時には大事であることを七恵は知っていた。
何より、活字に触れることが七恵にとっては癒やしであり、仕事が休みの日ともなればここぞとばかりに本屋や図書館といった活字の集まる場所へ赴くのである。
図書館特有の本の匂いに、七恵は小さい頃に家族で行った埼玉の図書館を思い出していた。まだ小学校に上がったばかりくらいの頃、すでに七恵は本の虫で休みとなればどこかの図書館に連れて行ってもらっていた。都内に飽き足らず近郊の図書館にまで足を伸ばし始めたころ、父親が「七恵が喜ぶものを見せてやるぞ」と連れて行ってくれたのがその図書館であった。何があるのだろうとワクワクしていくと、自分の身長よりもはるかに大きい地球儀が置いてあった。その日は一日中その地球儀の周りでいろんな事典を読み漁っては、この国にはこんな動物がいるよ、あんな虫がいるよと両親に話していた。
図書館は七恵にとって原点の一つであり、最も落ち着く場所でもある。
この街に転勤してきて半年ほど経つが、まだ図書館に行っていなかったことを思い出して、市立の1番大きな図書館を探してやってきた。
車で来ることもできたが、あえて路面電車を使ってみた。地元で暮らす人々が見ている景色を見ておきたかったのだ。路面電車に乗るのも始めてで、思った以上に狭い道路を走っていることに驚いた。午前中ということでお年寄りが多く、若い七恵の方をじっと見ては目が合うとにっこり笑うおばあちゃんたちに癒された。
館内は広く、思った以上に綺麗である。最近リニューアルでもしたようだ。七恵は特に何かを探すわけでも無く、館内をひと通り練り歩いてみた。
親子で楽しめるスペースもあり、静けさの中にも心地の良い雑音がある。気忙しく過ごす日々と比べると、これほど落ち着く空間はない。
一階を一周して、癒やしを十分に補充して、七恵は目的の本のある二階へ向かった。入り口の館内図で目的地は把握済みである。階段を上がるとすぐに、歴史や郷土にまつわる本棚のコーナーが出迎える。ここが今日の七恵の居場所である。
本棚からいくつかのめぼしい本をピックアップして、七恵は閲覧スペースに腰を下ろした。ノートとペンも広げつつ、この街の歴史を遡る旅が始まった。こうなると、七恵の中では時間があっという間に溶けていく。
何ページ目かのノートのページをめくった時にふと顔を上げると、七恵の前の席に1人の男性が座っていた。七恵がここに座った時には誰もいなかったので、夢中になっているうちに座ったのだろう。
細身なその男は、七恵と同じようにいくつかの本とノートを広げていた。違いがあるとすれば、七恵の筆記具がボールペンなのに対して、その男が握っているのは万年筆だということだろうか。七恵は何かを書いているその男の手元をみて美しいと感じていた。握り方や書く仕草がそう思わせるのだろうが、よく見るとそれほど特別な様子でもない。しかしそれでも何か引き込まれるものがあるのか、見とれてしまう。
うっかりしばらく男の仕草をじっと見てしまったことに気がついて、七恵は慌てて目線を自分のノートの方へ戻した。幸い男の方は特に気にしている様子もなく、淡々とノートに何かを書いている。
七恵は男が傍に積んでいる何冊かの本がどんな本なのか気になって見てみた。どうやら何かの古い事件などを調べているようで、よく見ると何年も前の新聞なども紛れていた。しかしそれよりも意識を一瞬で持っていく本を七恵は見つけてしまった。不意を突かれたことと、リラックスしていたことのギャップがあまりにも大きく、七恵はつい声を出してしまった。
「あっ、その本…」
自分が声を出したことに驚き、慌てて口を閉ざしたが時すでに遅く、七恵の向かい側に座る男も、ついに七恵の方を見た。
「何かございましたか?」
男の丁寧な口調に安堵しつつも、恥ずかしさと気まずさでパニックになりつつも、七恵は気になるその本について聞く他なかった。
「あの、急にすいません。その、あなたの持っていらっしゃるその白い表紙の本、それってここにあったものですか?」
その男の本に紛れていたのは、あの白い表紙の本であった。タイトルも著者の名前も書かれていない。真っ白な本。先日会った小柴由里子から預かっているあの本と同じものである。
「あぁ、これですか。これは私物でして、ここのものではないですね。ご存知なのですか?」
「そうだったんですね。いえ、私は知人から借りているんですが、この本が誰の何の本なのか分からず調べていたんですが、何かご存知ですか?」
男は、それは自分の中学校の同級生が自費出版で作ったもので、自分がその手伝いをしたことを話してくれた。
「それにしても、最近はよくこの本について聞かれるなぁ」
男は不思議そうに、しかしどこか楽しげな表情で言った。七恵はもはや遠慮もなく会話を続けた。
「よく、ということは、私以外にもこの本のことを調べていた人がいるんですか?」
男は一瞬こちらを見て間を開けてから、答えた。
「まぁね。そいつも僕と中学の同級生なのだが、あなたと同じようにこの本について聞いてきたよ。ただ不思議なことに、彼はこの本の作者とも友人だったはずだが、彼女のことをすっかりと忘れてしまっていたよ。まったく、薄情な男だよ」
楽しそうに話している男をみてもっと色々と聞き出せると考えた七恵は、ここが図書館であるということを忘れないように少し声のボリュームを抑えながら、質問を続けた。
「この本の作者に会うことってできませんか?ちょっと聞きたいことがありまして」
「うーん、どうかな。僕もこの本が出来上がってから連絡をとっていないからね。一応連絡先は知ってはいるが、申し訳ないがそもそも見ず知らずのあなたに渡すわけにもいかないですしね」
もっともである、と思いつつも、せっかく掴めそうな手がかりを逃すわけにもいかないと、七恵は少し強引な手を使うことにした。
警察手帳をそっとポケットから取り出し、ドラマさながらに「こういう者です」と男に見せた。
「何と、警察の方でしたか。かと言って個人情報を簡単に渡すわけにもいかないですが…」
男はわざとらしく驚いて見せつつ、これまたわかりやすく悩む仕草をしている。役者か何かなのだろうか。
「そうですね、それなら一席設けましょうか。僕も久しぶりに彼女に会いたいと思っていたところです。この本が繋いでくれたご縁ということで、どうでしょう?」
七恵は二つ返事で男と名刺を交換した。
海野わたる
そこにはそう書いてあった。ひどく見覚えのある名前だ。それもそのはずで、七恵の家の本棚にその名前の著者の本が何冊もある。
「まさか、あの海野先生ですか?」
男はにやりと笑って答える。
「知ってくれていたんですね。光栄です」
興奮で声が大きくならないように注意しながら、最大限のテンションで七恵は喜びを伝える。
「先生の作品は全て読ませていただいています…!どの作品も知性に溢れていて、でもどこか不安を感じさせるあの雰囲気がとても好きです…!」
海野は素直に喜び、ではまたと颯爽と帰ってしまった。
七恵は白い本のことなど忘れてしまうほどの出来事にしばらくは呆然としていたが、携帯電話が震えたことで意識を取り戻した。
慌てて本棚に本を戻して図書館を後にする。
外に出て着信を確認すると、同じ班の先輩からの着信だった。七恵は急いで折り返す。
「電話出れずすいません。どうしましたか?」
「おう、深見か。いやな、今日盗難の被害届が出てたんだが、被害者の名前に聞き覚えがあって、確かお前が追っていたやつじゃないかって思ってな。寺島ゆきこって女性なんだが」
寺島ゆきこーー
「わかりました、すぐ戻ります。その方まだ署にいますか?」
「いいや、今日のところは一度帰ってもらったよ。とりあえず連絡だけと思ってな」
「ありがとうございます。とりあえず一度行きます」
白い本と海野わたる、そして寺島ゆきこ。
七恵はこの事件が予期しないところでつながり始めていることに気がつきつつも、どこか漠然とした不安を感じたままであった。
それでも動くしかないという七恵の信念は揺らぐことはなかった。