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21.存在しない記憶(お題:10年前の傷跡)
少しの緊張を感じながら、深見七恵(ふかみななえ)はS市の中心である駅構内にたどり着いた。
駅と直結した大型の百貨店が複数固まるこの施設は、間違いなくこの街で1番大きな駅である。JRと地下鉄の駅がどちらもあり、空港へのアクセスも基本この駅を使うことになるから、キャリーバッグを引く人々も多くいる。
数か月前、七恵が東京からの左遷でこの街へやってきた時も、当然この駅に降り立った。あの時は半ば不貞腐れたところもあったし、正直今でもまともに使命を燃やせるような仕事をできているかというと疑わしいところだが、それでも正面から仕事に向き合うと決めたからには手を抜くわけにはいかない。
この夏に起きた2つの不審死。既に事故として処理されているものの、七恵はいまだに謎の多いこの事件を日々の仕事の合間に勝手に調べている。
先日は、同じように事件を追っているWebメディアの記者である菊野達弘という男と情報共有をした。事件の周りで見つかるとある「白い表紙の本」についての話だった。
2人であらゆる方向で考えたものの、結局大して新しい情報もなく解散となったが、この街で初めて同類の仲間に出会えた気がして、七恵は内心かなり嬉しく感じていた。
かつて父が言ってくれた言葉を思い出す。
どんなに燃えていたとしても、一本の薪はすぐに燃え尽きる。周りに同じように燃える薪があって初めて燃えた薪は炭となり、さらに長く、熱く燃えるのだと。
七恵はとにかくまだこの事件とも呼べない事件を追うことを決めていた。
そんな菊野との会合を終えた帰り、とある人物から電話がかかってきた。
それは、最初の不審死の1人、小柴道夫の母親の小柴由里子からであった。何か相談があるとのことで、今度こちらにくる時に会えないかという連絡だった。詳細を聞くこともなく場所と時間だけ指定され、短い電話は終わった。今日がその指定の日なのである。
駅の構内にはあちこちにカフェがあり、指定の店を探すのに手間取った。
入り口付近や名の知れたチェーン店ではなく、駅の北西の少し奥まったところにある落ち着いたカフェがその約束の場所だった。
早めに行動していたおかげで、店にたどり着いた時にはまだ約束の時間の5分前であったが、店員さんに待ち合わせだと告げると、先に待っていた由里子の元へ案内された。
「すいません、遅くなりまして」
「いいえ、私も今来たところです」
月並みな会話をしながらコーヒーを注文して、由里子と向かい合わせに座る。
店内は程よい混み具合で、テーブル席もボックス席も6割の埋まり具合といったところである。カフェというよりは喫茶店の落ち着きのある雰囲気で、BGMも程よいボリュームで、隣の席の会話が聞き取れないちょうどの喧騒である。
「今日はわざわざすいませんね」
由里子は丁寧に菓子折りを渡してきた。先日の七恵の土産のお返しのつもりなのだろう。地元の豆菓子だと言い、ちょうど気を使うことも荷物になることもない小ぶりな紙袋が可愛いらしかった。
寒くなってきましたねとひとしきりの雑談を交わしたのち、七恵が本題を切り出した。
「それで、ご相談というのは?」
由里子は歳の割にしわの少ない手をまごつかせながら、やや躊躇いがちに話し始める。
「あの、以前うちに来てくださった時に、あなたが持って行った本があるでしょう?」
七恵が数週間前に由里子の家を訪ねた時、亡くなった小柴道夫の遺留品の中から見つけた白い表紙の本を借りていた。タイトルも作者の名前も出版社の情報もないという不思議な本ではあるが、内容に特に不審な点はなく、何の手がかりも得られていなかった。
「すいません、お借りしたままで、お返しいたしますね」
七恵はカバンに入れていた本を取り出そうとした。
「いえ、そうじゃないの。ただね、最近気になることがあって」
砂糖は入れずにミルクをたっぷり入れたコーヒーを一口飲んで、覚悟を決めたように由里子は続けた。
「最近ね、よく見かけるの。あの女を」
七恵は、由里子がまるで私と共通の認識の「あの女」がいる風に話すのことに戸惑った。七恵と由里子の間で共有しているのは、小柴道夫の死に際最後にメッセージを送っていた、彼の恋人だった「寺島ゆきこ」だけだ。しかし百合子は寺島ゆきこのことを知らないと言っていたし、「あの女」と呼ぶような雰囲気でもなかった。
「あの女というのは、寺島ゆきこのことですか?」
戸惑いのせいで少しテンポは遅れたが、七恵は気になったことを聞くことに躊躇いがない。しかし今度は由里子の方が少し戸惑っている様子である。
「寺島…?ああ、確かあの子の恋人だったとかいう方ね。いいえ、違うわ。そうじゃなくて、あの本に描かれていた女よ」
七恵は再び大きく戸惑った。私が読んだあの本には、絵の類は一切なかったはずだからだ。七恵はすぐにカバンからその本を取り出した。
「あの本って、これのことですよね?」
白い表紙の本を由里子に手渡した。由里子はぱらぱらと本をめくりながら答える。
「あら、おかしいわね。最後の方に確かにいたのだけれど」
由里子は本当に不思議そうな顔をしている。
「私もこの本を別に詳しく読んだわけじゃないのよ。ただ荷物を確認した時にさらっと開いてみたのだけれど、その時に目に入ったあの女の絵が、何となく印象に残っていて」
由里子は本の最後の方のページを開いて見せてきた。
「多分この辺ね。少しページが浮いているわ。落丁でもしたのかしら」
「そんな、申し訳ないです。私の管理が甘かったのでしょうか」
「いえ、別にいいのよ、この本のことは。ただ、その女が最近私の周りをうろついている気がするのよ」
七恵には、少し嫌な予感がしつつも、聞かなければいけない質問があった。
「その女っていうのは、どんな人なんですか?」
「白いマフラーをした女よ。この本には、あの女と同じ女が描かれていたのよ」
白いマフラーの女ーー
2人の不審死の直前のメッセージの履歴に残っていた「白いマフラーの女」というキーワード。寺島ゆきこと同じように、最初から共通点として浮かび上がりこそすれど、実態が掴めない大きな謎の一つであった。
七恵がもっと詳しく話を聞こうと思った瞬間、由里子の様子が急変した。
コーヒーを飲もうと取ってを持とうとしている手が大きく震えている。当然カップを持つことは叶わない。
そして由里子の目は七恵ではなく、その後ろのガラスに向けられている。ガラスの向こうは駅構内の廊下で、向いにはケーキ屋があるはずである。
由里子の視線の先を確かめようと七恵もその辺りをみるが、特におかしなことはない。
「どうしましたか?大丈夫ですか?」
由里子は七恵に目を合わせないまま、さっきよりもか細い声で言った。
「いま、いたわ。あの女が。白いマフラーの女が」
七恵はもう一度振り返ってガラスの向こうの通路を見渡す。最近はだいぶ冷え込んできたので、ちらほらとマフラーをしている女性はいるが、どれがその白いマフラーの女かはわかるはずもない。
再び由里子の方へ体と目線を戻すと、由里子の手の震えはだいぶおさまってはいるが、代わりにその目からは虚な雰囲気が漂っていた。顔も心なしが青ざめている気がする。
「大丈夫ですか?救急車呼びましょうか?」
七恵の呼びかけに小さく大丈夫と返事をして、由里子はコーヒーを一口飲んだ。
今すぐにでも白いマフラーの女を探しに店を出たいところではあるが、目の前で弱っている女性を放ってはおけない。それは七恵の警察官としてのポリシーに反する。
由里子の様子が落ち着いていくのを丁寧に見つめていると、やがて先ほどと変わらない状態に戻っていった。
「ごめんなさい、ちょっと驚いてしまって。大丈夫。でもね、最近は本当にこうなの。しょっちゅうあの女を見かけるの。私怖くて。それで刑事さんのことを思い出したの。どうにかしてもらえないかしら」
例の不審死事件に気を取られて失念していたが、単純に由里子に付きまとう不審者がいるということであるから、確かにこれは自分の仕事だと七恵は我に帰った。
しかし、この手の付き纏い案件には余程の事件性がない限りは警察が動くことは難しく、そもそも由里子の地域は七恵のいる署からすると、当然だが管轄外である。
七恵は越境してまで人を動かせる自信はなかったが、先ほどの由里子の様子を見て余程の恐怖心があるのだと察し、どうにかして対処を考えて実行するしかないと、振り絞った。
「わかりました。A市の署に連絡を取って、そのような不審者の情報がないか、由里子さんを守ってもらえるように働きかけてみます」
由里子はありがとう、ありがとうと段々と小さくなる声で言いながら、七恵の手をとった。しわの少ない手には、先ほどは気が付かなかった小さな傷があった。
七恵の目線に気がついた由里子が言った。
「この傷はね、10年前に息子と一緒に料理をしていた時に包丁で切ってしまったのよ。あの子、不器用なのに父の日で頑張るんだってはしゃぐものだから、間違って私の手を切ってしまってね」
そう話す由里子に、七恵はこの日一番の戸惑いを感じていた。
なぜなら、由里子が亡くなった旦那さんと結婚したのはわずか2年前のことのはずであるし、連れ後である息子さんは仮に10年前であってもせいぜい18歳のはずだからである。そして由里子自体はその結婚が初婚のはずである。
では一体、由里子が今口にした思い出は、誰と何の思い出なのだろう?
七恵は、自分の手を握る由里子の手にあるその傷跡を見つめながら、良いしれぬ恐怖を感じ始めていた。