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28.『あいつ』(お題:あいつ)
高橋が会社を休むようになって三日が過ぎた。
社内では流行病を患ったということになっているのでさほどその話題になることはないが、本当の休んでいる理由を知っている俺からすれば、この上なく心配な状況だった。
先日高橋と飲みに行った時、やけに怯えて見せてきた「白いマフラーの女」の挿絵。高橋はあの時も白いマフラーの女をよく見るようになったと言って不安がっていたが、あれからさらに自体は悪化していた。
あの三日後、夜中に高橋から電話がかかってきた。滅多にかかってこない時間に嫌な予感がして出ると、もはやまともに喋ることもできていなかった。とにかく今行くから待ってろと高橋の家に行くと、部屋の中が異様な光景になっていた。カーテンは全て閉じた上で、隙間がないように全てテープで止められ、玄関のドアの覗き穴も全てテープで埋められていた。
オートロックを開ける時も、何度も「長谷川だよな?」と聞かれ、部屋にあげてすらもらえないところだった。
話を聞くと、あれから白いマフラーの女はさらに頻繁に高橋の前に現れるようになり、今までは街中だけだったのが家の周りにも出没するようになり、ついにはマンションの中にも入ってきたのだという。もしそれが本当であれば完全なストーカーであり危険なのだが、残念ながら実被害のないストーカーでは警察も頼れないし、とにかく今は引きこもっているのだそうだ。
俺はとりあえず高橋を連れ出しウチに連れていくことにした。もしストーカーだったとしても場所のばれているここにいるよりはよほどマシだし、うちは在宅で仕事をしている兄と二人暮らしをしているから、なるべく高橋を1人にしないで済むからだ。
会社にはこの状況は話してはいないが、唯一菊野先輩にだけは相談をした。山中先輩はもう例の事件関連のことには巻き込まないようにしようというのが俺と高橋と菊野先輩の間での約束だったので、選択肢は必然的に絞られた。
俺の家に来てから高橋の様子も少し落ち着いたが、依然として外に出ることは躊躇っていた。同居している兄も最初は戸惑っていたようだが、俺と同じで明るく誰とでも馴染む性格だから、住人が1人増える分にはさほど問題がなかった。
ただ、俺が仕事の間兄から時々報告をもらうのだが、高橋は日に何度か発作のように怯え出すらしかった。
急に部屋の隅でうずくまったと思うと「あいつが来る…」とずっと言っているのだそうだ。在宅の仕事中にそれをやられると集中もできないし、流石にオンライン会議中は勘弁してほしいと半ばクレームにもなっていた。
流石にずっとこのままというわけにもいかないが、どうすることもできずにいた。
そんな時、菊野先輩から連絡が入った。
「もしかしたら、白いマフラーの女の正体がわかるかもしれない」
詳しいことはまた後で、とすぐに電話を切られてしまったが、白いマフラーの女の「正体」がわかるというところに大きな希望があった。
正直なところ、高橋が見ている白いマフラーの女というのは十中八九幻覚の類だと思っている。あの本を読んだことで何かしら思い込むようになってしまったのだろうと。
ただ、白いマフラーの女に「正体」があって実態があるのなら、何のことはない、言ってしまえばただのストーカーでしかない。そして相手が女性なら、単純に襲われたとしても何とか身を守ることはできるだろう。
そう思うと、いつも間にか高橋と同じように白いマフラーの女にビビって怯えていた自分に気がついた。それが何よりも1番悔しい。ただ目の前に現れるだけのものに、何をそんなに怯えることがあるのだろう。口裂け女やカシマさんといった都市伝説のように、何か命の危険に晒されるような噂があるわけでもなく、ただただ身近な人間の中で時々出てくるだけのワードに何をそんなに怯えることがあるだろう。
仕事を早めに切り上げて、17時過ぎには自宅付近に着いていた。
今日は家の周りを徹底的に張って、不審な人物がいないか見回ることにしたのだ。もし白いマフラーの女らしき人物を見つけたら、とっ捕まえてやろうと思っている。
もちろん向こうが対話できるようであればそうするが、暴れたり暴力をふるってくるならこちらも抵抗は辞さないつもりだ。
念の為菊野先輩に一報入れておこう。もし俺が白いマフラーの女を確保したらすぐに来てくださいとメッセージをして、とりあえず家の周りを歩いて回ってみることにした。
地下鉄の駅から徒歩で10分ほどの好立地ではあるが、地域柄さほど家賃が高くない。だからどちらかと言えば治安がいい方ではないが、それでも住めば都、不便はないしちょっとした居酒屋やご飯処もあるし、住みやすい街である。冬になるとそれなりに雪が積もるが、除雪がなかなか入らないため中小路は車で通るにはかなりの覚悟が要る。朝からタイヤが埋まって動けなくなることなんてざらにある。もうすぐその冬がやってくると思うと少し憂鬱である。
家から3分ほどのところにコンビニがある。しかも3種類のコンビニがほとんど間もなく並んでいるから、その日の気分によっていくコンビニを変えることもできる。そのうちの一軒に寄り、あたたかい飲み物を買って外回りの準備も万端である。
コンビニの集合地点を越えて少し行くと学校があり、グラウンドでは部活動をする子供達がいる。俺は社会人になってからこの街に住むようになったので地元の学校ではないが、この若い空気感はいつ見てもノスタルジックな気分を高めてくれる。
ここまでが大通り沿いで、中小路に入って折り返し再び自宅を目指す。ストーカーもあまり目立つ大通りで待ち構えることもないだろう。
中小路に入ると途端に印象が変わり、どことなく暗い雰囲気になる。古いアパートやシャッターの降りたままの理容室が多いことが要因だろうか。道端で花壇の淵に座ってぼうっとしているお年寄りを時々見かける。生気の感じられないお年寄りの表情はどこか不気味だ。
とはいえ、別段不審な点があるわけでもなく、うねうねと普段通らないような小道も歩きながらゆっくりと自宅に向かう。普通に歩けば5分もあれば家に着くところを、30分もかけてぐるぐると歩きながらようやく自宅に着いた。五階建てのこじんまりとしたマンションで、この辺の建物ではかなり新しい方である。ここに住んで4年になるが、年々ボロいアパートが取り壊され新しいマンションに変わっていく。このマンションはその皮切りのような時期だったのだろうか。
俺の部屋は三階の北向きの部屋で日当たりこそそれほど良くはないが、兄と2人で住んでも十分な広さがあり、それなりに満足している。
唯一の不満は、去年隣に建てられた六階建てのマンションで、このマンションが建つまでは東側の窓からしっかりと陽が入っていたのに、すっかりと陽が入らなくなってしまったことだ。夏の陽が高い季節の朝ならまだギリギリ陽が入るが、冬が近づき今くらいの季節になるともう諦めざるを得ない。
ひとしきり家の周りも回って見たが、特に怪しいものはなかった。近所でよく見かける犬の散歩をするおじさんとすれ違ったが、だいぶ寒くなった季節なのにTシャツ一枚で歩いていて、白いマフラーの女とは正反対だなと思ったくらいで、至っていつも通りの平穏な様子である。
しばらく自宅マンションのエントランスで様子を見てみたが、特に何もないので一旦部屋に戻ることにした。さっき買った飲み物もすっかり冷たくなっている。流石にこの季節に長時間外にいるもの堪える。
エレベーターを上がってまっすぐ正面が我が家である。鍵を開けてただいまと言うと奥の方からおかえりと兄の声がする。
リビングに高橋の姿はなく、俺の部屋にもいないようである。今まであまりなかったが、兄の部屋にいるのだろうか。
兄の部屋のドアをノックして入ると、兄はデスクに向かって仕事をしていた。やはり高橋の姿はない。
「兄貴、高橋はどうした?」
パソコンに向かったまま兄が答える。
「あぁ、高橋くんなら今日はもう帰るって。ちょっと前に帰ったよ」
あまりにもあっけらかんと話す兄に驚いて、一瞬言葉が出なかった。
「なんで簡単に帰すんだよ。いまあっちにもどったら、あいつに見つかるかもしれないだろ」
兄の言い訳を聞くこともせず、急いで家を飛び出した。
近くの駐車場に停めてある車まで走りながら、携帯で高橋に電話をかけるも出ない。もし高橋が自宅へ戻るなら地下鉄を使うだろうから、もしかしたらもう車内なのかもしれない。
どうしたらいいだろう。もし街中であいつが髙橋を待ち伏せしていたら危険だが、街中であれば周りに誰かしらがいるから助けてはもらえるだろうか。やはり危険があるとしたら人が少なくなる高橋の自宅付近だろう。車で行けば最短を行ける分高橋が自宅に着くよりも先に行けるかもしれない。
そう考えて、俺はまっすぐ高橋の自宅の方へ向かうことにした。
時刻は18時を過ぎた頃で、あたりはかなり暗くなっていた。
高橋の自宅の近くの駐車場に車を停め、歩いて高橋の家に向かった。
高橋の家は七階建てのマンションの四階で、路地から見上げるとちょうどベランダが見える位置にある。部屋のあかりは着いていないようだが、例のテープでカーテンを止めているような状態だから、あかりがついていても分かりにくいし、もしかしたら暗いまま部屋にいるかもしれない。
とにかくまずは高橋の無事を確認しないことにはどうしようもないので、さっきからずっと高橋に電話をかけ続けている。
時刻が18時半を過ぎた頃、ようやく高橋と電話がつながった。
「おい、大丈夫か?」
電話口の向こうからは人混みのような喧騒が聞こえてくる。
「どうした?ずっと電話かけて来てたみたいだけどなんかあったか?」
「どうしたも何も、お前を心配してるんじゃないか」
高橋の飄々とした態度に幾分か腹を立てつつ、とにかく高橋が無事なことを確認できてホッとしていた。
「それよりおまえ、例の流行り病はもういいのかよ。まだ三日くらいだろ?」
高橋の言葉に虚をつかれた。何か会話が噛み合っていない。
「流行り病だってことにして休んでるのはお前だろ。何言ってるんだよ」
「お前こそ何言ってるんだよ。どうした?様子が変だぞ?おい、長谷川、お前今どこにいる?」
高橋の声がどこか遠く聞こえる気がする。
「お前の家の前だよ。お前が『あいつがいる』って言うから、見張ってたんだよ」
「『あいつ』?なんのことだ?それにお前俺の家知らないだろ?どこにいるんだよ」
だんだんと意識も遠くなっていく。
「『あいつ』だよ。白いマフラーの女。『あいつ』が来るんだよ」
「ちょっと待ってろ、すぐいくから、どこにいるんだよ!」
高橋の声はもう聞こえなくなっていた。
携帯電話は地面に落としてしまっていた。
なぜなら、俺のすぐ数メートル先、街頭の照らす路地に『あいつ』が立っているからだ。
そっちがその気ならやってやる。
ストーカーごとき怖くない。
俺は意を決して、白いマフラーの女の方へ歩みを進めた。
数メートル先なのに、とてつもなく遠く感じた。