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18.静かな寝息(お題:まゆげつながる)

この人と同じ空間にいてこんなに静かなのは初めてだな。

寝ている時もいつもいびきのうるさい夫が、病院のベッドで静かに眠っているのを見ていると、新鮮で不思議な気持ちになった。このまま2度と目覚めなかったらどうしようという不安はあったが、どこかで絶対に大丈夫だという確信もあった。

今日もさっき一瞬目覚めた時、たった一言だけ夫が絞り出したのは「今日は、ゴミ出しできなかった。ごめんな」という言葉だった。夫の中ではまだ日常生活が続いているのだ。希望とか絶望とかそういう次元でなく、いつも通りなのだ。だからきっと、そのうちまた普通に戻ると思えた。

飲み会に行ったきり朝になっても帰って来ない夫に、最初はただ腹を立てていたが、昼になっても連絡が取れないことに急に嫌な想像が巡り、あわてて警察に助けを求めた。

結局夫の所在が明らかになったのは次の日の朝で、市内の病院で治療中だと聞いた時には腰が抜けた。見つかった安堵と予想していた最悪よりはちょっと下ではあるが、それに近い状況に一瞬頭が真っ白になった。娘を実家に預けて急いで病院に駆けつけた時、すでに夫の同僚で昔から付き合いのある菊野さんが来てくれていて、夫の無事を伝えてくれた。

夫が見つかった安堵、事故に遭って治療中だという不安、これから先のあらゆることに対する恐怖や想像が押し寄せて、不覚にも病院の廊下で泣いてしまった。昔から、特に結婚してからは一度も泣いたことがなかったと思う。結婚式での両親への挨拶も涙を流さずに乗り切ったことは、自分の中でもなぜか誇らしいことであった。自分も家族も友人も、自分の手の届く範囲の人には笑っていてほしいと思うから、心を常に穏やかな方に置いておくことを意識している。だから、辛いことや悲しいこと、腹立たしいことがあってもなるべく楽しく考えられるように変換するのだが、今回ばかりはその変換機能も著しくパフォーマンスを落としているらしかった。

色々と張り詰めた状態で、夫以外で頼れる菊野さんを目の前にして、一気に決壊したのかもしれない。菊野さんは優しい人ではあるが、弱った人間に優しくして自己評価をあげようとか、下心を持ち出すような人間でないことも知っていたから尚更である。ただ静かに、私が落ち着くのを待っていてくれて、それから病室へ付き添ってくれた。

病室で夫の姿を見た時に、不思議とさっきまでの不安や恐れというのは治まり、むしろどこか覚悟が決まったような気がした。もしこの人がこのまま目覚めなくても、私は娘を育ててこの人の帰りを待つのだと、それが腹の芯に置かれたようだった。

いつもの間抜けな寝顔とは違う、痛々しさのある顔で寝ている夫は、それでもいつもの夫に見えた。この人はいつだって、自分のままいてくれる。頼りないところはたくさんあるが、それでも戻ってくる場所だと思えるのはそういうところだろう。

結局、その日は夫はほとんど目を覚まさず、次の日からも時々少しだけ意識があって、なにやらごにゃごにゃと言ってはまた寝る、を繰り返していた。

3日経った今日も、ついさっき菊野さんと警察の女性の方が一緒に来たときにほんのりと意識があったが、またすぐに眠ってしまった。2人は何やら聞きたいことがある様子だったが、またきますと行ってしまった。菊野さんが誰かと一緒に行動しているのが珍しく、しかも若い女性ともなると滅多なことではないような気がして、私も夫を叩き起こして色々と聞きたくなった。

しかし、まだ顔にも切り傷だらけの夫の姿に、流石にそれはできないと思いとどまった。

事故に遭ってから4日もこの状態だと、傷だけでなく髭もいい加減に汚くなってきている。それだけ生命活動がなされている証拠にも見えるからそれはそれで良いのだが、以外にも毛深い夫の無精髭が私は昔から嫌いなのだ。髭だけでなく顔全体の毛が濃いから、眉毛ももう繋がり始めてる。

夫の毛深さは不思議な偏りで、上半身だけがやたら毛深く下半身は普通という、なんともアンバランスな人だ。何度か脱毛をすすめたが、どうにも男の脱毛は恥ずかしいという気持ちが捨てられず、いまだに通ってはくれない。お小遣いとは別にお金は出してあげると言ってもだめだから、相当嫌なのであろう。

後で看護師さんに一応確認をして、夫が寝ている間に勝手にヒゲと眉毛を剃って整えてしまおう。

気がつけばもう夕方になっていた。
ここのところはすっかりと日が落ちるのが早くなって、あっという間に真っ暗になってしまう。

ついこの間まで、厳しい残暑にうなだれていたのが嘘のように、厚手のコートを着込む季節になってしまった。

そういえば、今年の夏の夫の様子は、どこかおかしかったように思える。

浮気をするような度胸のある男ではないのはよく分かっているから、何かやましいことをしているわけではないのは感じていたが、どうにも何かを焦っているような、何かに追われているような、がむしゃらな必死さとはまた少し違う表情をしていたように思う。

家に帰って娘と遊ぶ時や休みの時はいつも通りにしているつもりだったのだろうが、自分がどれだけわかりやすい男かという自覚がないのだろう。ついには娘にも「ぱぱ、どうしたの?お腹痛いの?」と心配されるほどわかりやすく何かを抱えていた。

夫は仕事の話をするにしても同僚の話ばかりで、肝心の自分の仕事について話す人ではなかったから、あの時も私はそっと見守って、エアコンが壊れている車で使う用の小さい扇風機を買ってあげただけで、詳しく話を聞くことはなかった。

ただ、この前お見舞いに来た菊野さんに「とある事件を一緒に調べていた」と言われて、もしかしたらやはりそれがおかしな様子の原因だったのかと思った。そして何よりその後の「もうやめるから大丈夫だろう」という言葉が強く残った。それはつまり、その事件のことを調べている間は大丈夫ではなかったという言い方なのだ。菊野さんもきっと夫の異変を感じていたのだろう。

一体夫にどんな変化が起こっていたのか?

正直、何かがおかしいのはわかるが、何がどうしておかしいのかというのがさっぱりわからなかった。というより、もしかしたら本当に些細な違いしかなかったからかもしれない。

どこか喉に小さな骨が刺さっているような、靴の中に小石が入っているような、歯に何か挟まっているような、そんな小さな違和感を抱えていただけなような気もする。

それがどうして今回の事故につながるかなんて尚更わからないが、ただその原因を作ったものがなんなのかはすごく気になる。気になるというよりも、もはや腹立たしい。純粋な夫の探究心につけこんで、何か小さな違和感を放り込んできたものとは一体なんだったのか。

すっかり日も暮れてしまっていたことに気がつき、慌てて帰る準備をしていると、病室のドアがノックされ、看護師が入ってきた。

「山中さん、おかえりですか」

すらっとした立ち姿で、いかにも白衣の天使と形容されるような整った美貌を持った看護師の女性が声をかけてきた。いわゆる女性に人気があるような、凛々しさを奥に持っている女性だ。

「今日も、ご飯は食べれなさそうですね。点滴用意しますね」

手際よく仕事をこなす女性は美しい。私は結婚して子供が生まれてからはしばらく専業主婦をしているが、元々はインテリア関係の仕事をしていた。知識提供がメインの仕事だから、自分の手で何かを作ったり作業したりということとは無縁であった。子供ができてからは、多少の縫い物をするようになったが、きっとおままごとのレベルを出ていないくらいのものである。

こうして手に職をつけている人は少し羨ましくもあるが、今はとにかく、娘を育てることと夫を支えることに集中している。だから、夫には早く戻ってきてもらわねば。

「きっと、もうすぐ良くなりますよ」

私の心を読んだかのように、看護師さんは微笑んだ。

「ありがとう。ええと…」

胸元の名札を探す。

「ありがとう、寺島さん」

にっこりと微笑みだけ返して、寺島ゆきこというその看護師は病室を後にした。

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