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06.土産話(お題:泣いてる弟)
大量の本が放つ独特の埃臭さと、香ばしいコーヒーの匂いというのは、どうしてこうも相性がいいのだろう。
菊野達弘は、友人である風間尊がコーヒーを入れてくれているのを横目に、部屋の北側の壁一面の本棚を眺めていた。過去に風間から借りて読んだ本もちらほらとはあるが、その大半が見たことも読んだこともない本ばかりである。
興味深いのは、この本棚に並ぶのは小説や評論文だけではなく、辞書や論文らしきもの、漫画や雑誌、時にはテレビゲームの攻略本など、その種類に糸目がないことである。しかも、それらの書物は一見するとなんの法則性もなく、作者もジャンルもサイズもバラバラに納められている。
風間はこの本棚の中から一体どうやって自分の読む本を選ぶのだろうか。それとも、これらはすでに読み終わった本たちで、もうこの棚から出てくることはないのだろうか。1冊くらい入れ替わったりなくなったとしても到底気付きそうにもないが、そんなことを気に掛けるような異常性を持っているのが風間という男だとよく知っているだけに、本棚に手を伸ばす勇気は出ない。
「気になるのなら、手に取ってみたらいい。なんなら貸したっていいんだよ」
振り返ると、風間はすでにコーヒーを入れ終わり一人がけのソファに腰掛けていた。こちらの心中を完全に察しての言葉に少し驚いたが、これだけ夢中で本棚を見ていたらそう見えるかと、すぐに納得した。
「これ、前からこんな並び方だったか?」
風間はコーヒーをすすった後、少し嬉しそうに答えた。
「いいや、先日まとまった休みがあったからね、並び替えたんだよ。よく見るとわかるが、どの本も隣り合うものとは作者やジャンル、サイズや色が合わないものになっている。面白いだろう?」
達弘は改めて本棚を眺めてみた。
確かにバラバラだなとは思ったが、よく見ると本当に全ての本が全く関連性のないものと隣り合っている。これだけの量、おそらく1000や2000ではきかないくらいの本の全てが関連していないというのは、おそらく人生で初めてだろう。
「なんでまた、こんなことを…」
達弘は半ば呆れ、半ば尊敬の入り混じったため息をついた。
「関係性を感じないように意識するっていうのは、我々人間にはとても難しいだろう?だからやってみたくなったんだ。実際やってみると本当に難しくてね。そもそもこの世の書籍というのは大抵似たようなところに分類されてしまうんだ。どうにかバラバラにできないものかと、欲しくもない書籍をそこそこの量買ってしまったよ。それはそれで新しいものに触れられて楽しかったけどね」
呆然と聞いている達弘に、風間は座るように促した。
「それで、今日の土産話はどんな話だい?」
達弘はここ最近の「白いマフラーの女」にまつわることを風間に話した。2つの事件と白いマフラーの女にどうしても何かを感じてしまうことを。
「なるほどね…」
風間は砂糖の入っていた細長い紙の袋を手でくるくると巻きながら、何やら考えている様子である。彼は昔から、何か考え事をする時に手元にあるものを触る癖がある。おしぼりとか、割り箸の袋とか、そういったものをくしゃくしゃにしながら考え、話す。
「例えばだ」
風間は脈絡もなく切り出した。
「小さな男の子が二人いる。そのうち一人が泣いていたとしよう」
達弘は小さく、はぁ、と相槌を打ちながら、いつもと変わらない風間の突拍子のなさに安心感をも覚えていた。
「泣いているのは、弟か、兄か。どちらだと思う?」
急角度な質問に驚きながらも、達弘は怖気付くことなく答える。
「それはあれだろう、ミスリードってやつだ。小さな男の子が二人とは言われたが、それが兄弟だとは言っていなかっただろう。泣いているのが弟か兄かという質問が、そもそも成り立っていない」
風間はニヤリと笑った。
「さすがだね。でも残念。泣いているのは弟だ」
自分の答えが正解だと思ってのんびりとコーヒーを飲もうとしていた達弘は慌ててコーヒカップを机へ戻した。
「どうしてだ?そんなことどうやったらわかるんだ」
普段あまり感情的にならない達弘だが、風間との会話ではいつもなぜか少し感情が波立つ。学生の頃に戻ったようになるのか、一見クールそうに見えて子供のように笑う風間に引っ張られてのことなのかわからないが、達弘にはそれが少し疲れることであった。
「簡単さ。僕がそう決めたからだよ」
達弘は呆気に取られて、数秒の間何も言えなかった。
「…そんなの、ずるじゃないか」
ようやく絞り出したのはもはや大人の会話ではしばらく聞いていない幼稚な言葉であった。
「いいや、ずるなんかじゃないさ。そもそもこれは例え話であって、事実や史実の話ではない。物語にすらなっていないただの言葉だ。そしてこれは僕が話した言葉なんだ。僕が決めていいだろう」
何かそれらしいことを言っているようで、何一つ具体的には言っていないような、狐に化かされているようななんとも居心地の悪い感覚を振り払いつつ、達弘は本題へ戻すことにした。
「それで、その例えで今回の件の何がわかるんだ?」
風間は少し勿体ぶりながら話を再開した。
「つまりだね、どんな話も作り手というのは圧倒的に有利だ、という話なんだ。いいかい、今回の2つの事件と白いマフラーの女の件、これらがもし繋がりのあることだとしたら、それを決められるのはこの話を生み出した人間なんだ。
君はおそらく誰かからこれらが繋がっていると聞いたんじゃないか?最初にその繋がりを作った人間が、事件と白いマフラーの女を紐づけている犯人だよ」
達弘の頭には、最初にこの話をした同期の山中の顔が思い浮かんでいた。確かに山中が「白いマフラーの女の呪いだ」と言ったのを聞いてから、達弘の中でも白いマフラーの女の存在が大きくなっていったような気がする。
だが達弘は納得できないことがあった。
「確かに、同期のやつから白いマフラーの女というキーワードを聞いてから俺も関連性を気にするようになったが、つまりそれって全部勘違いだって言っているのと一緒だろう?わかるんだけどさ、勘違いだってのはわかってるんだけど、それでもなんか気になるからこうしてお前のところに来たわけなんだよ。それを「だから勘違いだ」って言われると、ちょっとショックなんだよな…」
ガラにもなくたくさん喋っていることに気がついた達弘は少し恥ずかしくなった。自分もまるで駄々をこねる子供みたいじゃないかと。
「勘違い、というのとはちょっと違うんだよ」
達弘の耳には風間の声がさっきよりも少し重たく聞こえた。風間が本気の時の声のトーンだとすぐにわかった。
「その同期の彼は「呪い」と言ったんだろう?そこが重要なんだ。これはただの勘違いじゃない。立派な呪いだよ」
真面目な風間の声と、「呪い」という言葉のアンバランスさに達弘は少し気味の悪さを感じていてた。
「呪いっていうのをただのオカルト用語だと思っているだろう?だけどそうじゃないんだ。呪いっていうのは一種の催眠だ。何かと誰かを関連づけする「意識」を作るものなんだ。人は日常的に自分を自己暗示しながら生きているんだよ。泣いている弟と兄のように、本当は関係もないし前提もされていない事柄を僕たちは当たり前のように繋ぎ合わせて生きている。それを意図的に作り出すのが祈りや呪いというものなんだ」
例えば?と達弘が質問するよりも早く、風間が話を続ける。
「例えば、黒猫が横切ると縁起が悪い、とか、靴の紐が切れると良からぬことが起きるとか、そういった迷信がその代表例だね。雨男や晴れ女というのもそうだ。人の性質が天候を操れることなどあり得ないのに、何回かそういったことが起こっただけで人は関連性、因果関係を感じてしまうのだよ」
達弘は以前納得はしきっていなかったが、風間の言うことに一旦乗ることにした。
「つまり、同期の山中の言葉が呪いになって、俺は白いマフラーの女と二つの事件を結びつけざるを得なくなっているってことか?」
風間は答える代わりにコーヒーを飲み干し、机に戻した。カップの横には、ちぎれてボロボロになった砂糖の袋が散らばっている。
「ただ一つ興味深いのは、その呪いが君以外にも広がっていそうだということだね。通常、ただの一般人がぽろっと話したこと程度のものに、そんなに伝播する力はないはずなんだ。だから、多分、その男以外にも呪いを広げようとした「作者」がいるのだろう」
達弘の頭の中では、妙に真面目に呪いの話をする滑稽な山中を押し除けて、もう一人のシルエットが浮かんできた。まだ会ったことのないその人物は、シルエットのままこちらを見ている。
「寺島ゆきこ、か」
風間は楽しそうにこちらを見ている。
「また、面白い土産話を楽しみにしているよ」