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07. 晩夏の幻(お題:扇風機)

北国の秋はどこへ行ってしまったのだ。9月も後半に差し掛かったというのに、まだ30度近い気温になるなんて、経験したことがあっただろうか。日差しの強さは真夏ほどではないにせよ、こうして車の中で待機しなければならない時間が長くなると流石に堪える。ましてや、先週末に30度を超えた日を堺に車のエアコンが故障し動かなくなった今の状態だと、下手すると命にすら関わりかねない。それでも車を修理に出す時間もお金もない俺を見かねて、妻がUSB電源で使える小さな扇風機を用意してくれた。カラカラと安っぽい音を立てながら回るこの扇風機が、涼しさと愛を感じる唯一の救いだ。

ふとスマホの画面を見ると、現在の気温が29度というのが目に入り、暑さを忘れるどころかなおさら意識してしまった。最悪だ。

するとピコンと小さな音を立てて、メッセージが届いた。妻の香苗からだ。

「扇風機はちゃんと動いている?今日のお昼は外で食べるって言ってたけど、暑いからってあまり冷たいものを食べないでね。野菜をちゃんと食べること。あと帰りにお風呂掃除用の洗剤を買ってきてね」

心配をしているようで尻に敷かれているような、テンションのさほど高くないメッセージにある種ほっとする。惚れた弱みというのは良くある話で、妻とは俺が一方的に惚れて何度もアタックしてようやく結婚までこぎつけたものだから、基本立場は妻が上である。妻はメッセージと同じく家でもさほど感情的にコミュニケーションをとるタイプではないが、口数が少ないというわけでもなく、パートの愚痴や子供達の話を淡々と話してくれる。

俺としてはもっといちゃいちゃとしたい気持ちがないわけでもないが、それでも離れず一緒にいてくれるならなんでもいいと思えるくらいには妻を愛しているつもりだ。

先日はそんな話を同期の菊野にしたところ、

「あぁそうか。で、例の話なんだが…」

と全く興味を示すこともなく例の事件の話に話題を変えられてしまった。菊野という男は昔からそうで、気を遣ったり忖度をしたりということがほとんどない。思いやりがないというわけではないが、自分が必要だと思わないことにはてんで興味を示さないのだ。

菊野と会話をするたびに、多少口うるさくても俺に興味をちゃんと持ってくれる妻のありがたさを実感することになるので、ある意味あの男には感謝をしないといけないのかもしれない。

そうこう考えているうちに、公園の脇に留めている車の周りに小学生がちらほらと見え始めた。もう小学校は下校の時間である。この後の時間になると公園には子供達が溢れかえってしまうので、流石に車を移動せねばなるまい。

しかし、ここ1週間の間はこうして徹底して寺島ゆきこの自宅周りで張り込みをしているが、一向に姿を見ることができない。昨日は夜中もびっしりと張ってみたが成果はなかった。本来一記者程度の俺がこんなにも熱心に張り込み取材をするようなことはないのだが、いかんせんこの一件が気になって仕方がなく、こうして張り込みをしている。

会社からはもうこの事件に新たな展開はないだろうと、他の案件に戻れと言われたが、どうしても諦められず取材を続けている。会社からはやるなら休みにやれとまで言われてしまったので、今日も有給を使って張り込みをしている。俺が妻と子供を大事にしていることは会社の面々よく知っているから、こんなことで有給まで使う俺に驚いた様子だった。そして何よりも俺自身が自分の行動に驚いている。なぜこんなにもこの事件にこだわってしまうのか。

公園では子供たちがサッカーを始めていた。市内の公園では基本的にボール遊びは禁止になっているが、現代の子供といえどそんないいつけをきっちり守るような子はいない。放課後にサッカーもできない公園など、なんのための誰のための公園か。子供たちが学校に行っている間にはサボっているサラリーマンらしき中年男性がベンチで休んでいるが、そんな人のために公園があるわけではない。公園はもっと子供達が自由に遊べるところであって欲しいと思う。俺の子供も小学校に上がればそのうち、あんなふうに遊ぶのだろうか。

あぁ、俺はどうしてよくわからない事件のためにこんなことをしているのだろう。

子供たちが溢れ出した公園をそそくさと離れ、寺島ゆきこが以前勤めていた病院に向かうことにした。車を運転しながらも、自分に投げかけた疑問を反芻していた。

本当のところ、俺は自分でもわかっているのだ。
なぜこの事件を追いかけてしまうのか。

それは、寺島ゆきこ以上に気になっている「白いマフラーの女」だ。
死亡した2名の最後のメッセージ履歴。そのどちらにも残っていたという「白いマフラーの女」。一体その女がなんだと言うのだ?冬になればその女は俺の前に現れるのだろうか?その女の呪いが二人をしに追いやったのか?そもそも呪いなんて非現実的なものを、どうして俺は考えてしまうのか?

この事件、もはや事件とも呼べないかもしれないが、この件に関する新たな情報は一切増えていない。担当の刑事も先週から捜査をほとんどしておらず、話を聞きにいっても突っ返されるだけである。情報が増えない以上、俺のこの疑念と混乱は晴れることはない。なんとしても新しい情報を掴むためには寺島ゆきこしか糸口は残されていないというのに、その寺島ゆきこの足取りが全く掴めない。今向かっている寺島ゆきこの以前の職場も、もう4度も訪れている。何も知らないし連絡も取れないという元同僚たちに無理やり何度も話を聞いてしまったので、前回訪れた際には出禁を食らいそうになった。だから今日は菓子折りを持って謝りに行くだけにするつもりだ。

信号待ちのたびに、USBに繋がれた小さな扇風機を手に持ち火照った首に風を当てる。風と一緒に妻と子供の顔が浮かび、俺を落ち着かせてくれる。

この先に、よく手土産で買いにいくおかきのお店がある。そこで菓子折りを買おう。

信号が青になり、ゆっくりと走り出した。
左手に信号待ちをしている歩行者の姿が見える。その中に、見覚えのある顔があった。

寺島ゆきこだーー

信号を渡ったところで慌てて車を止め、ハザードを炊いて運転席を飛び出した。
少し道を戻り信号待ちの人たちの顔を確認するが、寺島ゆきこはいない。

俺はスマホを取り出し寺島ゆきこの写真を再確認した。
寺島由紀子が勤めていた病院の同僚からいただいものだ。病院のロビーらしきところで看護師の制服を着て、おそらく出産を終えて退院する家族と一緒に撮ったものだろう。
顔ははっきりと写っていて、鼻筋の通った、美人の類に入るであろう整った顔立ちだ。

改めて写真を確認して、さっきここで信号待ちをしていたのはこの人物で間違いないと確信した。
まだ近くにいるはずである。青信号の方にはそれらしき人はいない。だとすれば、この路地を曲がった先にいるのか。

あたりを見渡したがそれらしき人影はない。交差点の角には古い写真館があるが今は営業しておらずシャッターが降りているから、この中に入ったとは考えられない。

あの一瞬の間に、完全に見失ってしまった。
そうこうしているうちに信号が変わった。仕方なく車に戻りUターンして、先ほどの交差点を写真館の方に曲がってみることにした。可能性があるとしたら、この先だ。

車を走らせていくとそこは何の変哲もない住宅街で、少し進んだ先にあったコンビニに一度車を止めた。

店員や客の数名に寺島のことを尋ねてみたが、誰も彼女を見たことのある人はいなかった。

店を出て、まだ暑い夕方の路地で途方に暮れていた。
もしかしたら俺は、何か幻覚のようなものを見たのだろうか。妻からもらった扇風機の風で冷静になったつもりでいたが、ずっと幻を見ているのではないか。
暑さでぼぅっとして、頭に血が回っていない感覚がする。

気がつくと、車に戻るでもなく、あてもなく路地をふらふらと歩いていた。
この辺りには来たことがない。地元ではないし、来る理由もない。
ただの住宅街で、時々小さな個人店があるくらいで、あとはマンションや一軒家が並んでいる。建物を見る限り、それなりの所得層の家庭が多いのだろう。古い一軒家でも、きちんとした庭があり手入れが行き届いている。

住宅街を進んでいると、小さな書店を見つけた。
それなりに古さを感じる佇まいで、看板も掲げているのかどうかわからないくらいさりげなく、インクが剥がれて読めない。

クーラーが効いている望みも薄かったが、俺はその書店に入ってみることにした。
入り口の引き戸を開けると、チリン、と小さな鐘のなる音がした。

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