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08.題名のない本(お題:コングラッチュレーション)

昨日までの暑さが嘘のように、冷たい風が菊野達弘の体を刺していた。
10月を目前にしてようやく残暑が過ぎ、北国らしい気温が戻ってきた。今年は暑くなり始めるのも早かっただけに、この寒さがやけに懐かしい。だがそれと同時に、痛みすら感じるこの寒さがやはり始まってしまうのだというだるさもある。いつだって人はないものねだりになるというのは真理だろう。

18時半を少し過ぎた街を達弘は少し早足で歩いていた。寒さがそうさせたのもあるが、会社の飲み会にもう30分も遅れているのが主な理由である。
本来ならば職場の飲み会というものにはほとんど顔を出さない達弘であったが、今日は同期の山中が絶対に来いと珍しく圧力をかけてきたので、仕方なしに参加することにした。それでもやはり仕事の方に意識がいって、すっかり遅刻の時間になってしまった。

そもそもうちの出版社に18時からの飲み会に間に合う連中はいるのかと甚だ疑問はあるが、大抵の人間はきつい仕事の合間の飲み会を楽しみにしているのだそうだから、こういう日にはみんな意地でも仕事を区切らせて参加するのかもしれない。達弘にとってはそもそも飲み会というものを楽しいと思うことはほとんどないため、飲み会に参加するモチベーションというものが存在しない。
ただなんとなく、というかほぼ確定で今日の飲み会には自分が必要なのだということは理解していた。

というのも、今日が達弘の32歳の誕生日だからである。おそらく今日の飲み会は達弘の誕生日を祝うために開催されるのだ。
職場において達弘はさほど人気があるわけではなく、特別出世するような立場にいるわけでもない。つまりはさほど大きな存在感を出していないという自負があった。しかし達弘の同期に山中という男がいることが運の尽きで、彼は職場の飲み会において新卒の頃からひたすらに幹事を任されてきた男であるから、彼の手帳に誕生日を書かれている人はもれなく誕生会を開催されるのである。達弘は自分の誕生日をわざわざ言うようなことはしないが、新卒の頃に山中と同じ班で仕事をしていた折、やたらしつこく聞かれるので一度だけ誕生日を答えたことがあったのだが、それ以来彼は達弘の誕生日を毎年必ず祝うのである。もちろんありがたいことではあるのだが、こうして周りまで巻き込んでやられると流石に疲れてしまう。
それでも、周りの連中が欲しているのがあくまでも飲み会を開く理由であって、自分の誕生日にさほど興味がないのがわかっているから多少なりとも参加しようという気になるものである。
自分の誕生日がそういった形で役にたつのなら儲けものだ。

だからこそ堂々と遅刻もできるのだと、半ば強引に自分を納得させながら、達弘は目的の店にたどり着いた。
特別高くもなく、安すぎることもなく、なんとも絶妙に大人が10数人集まって飲むのにちょうどいい店である。こういう店を山中はいくつ知っているのだろうか。

店の中に入ると、すでに盛り上がり始めた同僚たちの席がすぐに目に入った。同時に、山中の幹事としての気配りの目にもすぐ見つかり、余計な煽りを受けながら席についた。
ここ最近の暑さと、超多忙なスキャンダルシーズンを抜けて解放的になった同僚たちの空気感は、決して居心地の悪いものでもなかった。

ひとしきりの誕生日の祝福と面倒なフリへの対応を終え、ようやく落ち着いてお酒と食事にありつく。いくつかの小さな誕生日プレゼントの包みを受け取り傍らに置くと、すっと横に近づいてくる人物がいた。

「菊野先輩、彼女とはお祝いしないんですか?」

憎らしい笑みを浮かべながら、後輩の長谷川陽太(はせがわようた)が声をかけてきた。山中の直の後輩で、山中と飯を食べに行く際に時々一緒についてくる若者である。出版という古びた業界に入ってくるだけあって、飲みニケーションもなんのその、上司や同僚とうまくコミュニケーションの取れるやつで、口数が多く、余計なことを言っても許されるような愛嬌も持っている。早い話、自分とは正反対の人懐っこい男だ。

「彼女はいないって、言ってるだろう」

達弘はいつもと別段変わらず、さらっと返答する。
それでも長谷川は何やら楽しそうに話かけるのをやめはしない。

「先輩、最近ずっとあの件調べてますよね?山中さんもこないだまでずっとそれで、一体なんなんです?その事件」

他の上司や同僚と話す時はいわゆる俗っぽいどうでもいい話をする長谷川だが、達弘と話す時は比較的仕事の話が多い。振る舞いは軽いが、仕事に対しては実は熱心な一面をもっているのが良くわかる。入社してすぐの頃に達弘が「記者の基本は紙とペンだ。常に持ち歩くように」という指摘もすぐに実践して、いまだにそれを守っている。他の若い奴らはスマホの録音や写真、メモばかり使うが、この男はくしゃくしゃにしながらメモ帳を常にポケットに入れている。
こういう人間はそう簡単にこの仕事をやめないことを達弘は知っていたから、性格こそ自分と正反対ではあるが、山中と同じように長谷川にも仕事において一定の信頼を置いていた。

その長谷川も、やはりあの事件には多少の興味があるらしい。

「いや、僕もちょっと気になりはしたんですけどね。あまりにも情報がなくって、正直調べるも何もないんじゃないかなって。なのに先輩方が二人とも躍起になってるから、みんな不思議がってますよ」

どうやら長谷川が興味を持っていたのは事件そのものではなく、それに振り回されている我々のほうだったようだ。
達弘も、自分でもなぜこんなにもこの事件にこだわるのか、いまだにわからずにいたから、何も答えることができなかった。

ただ、こうして改めて長谷川になぜかと問われた時に、自分の中でもうさほど気にしていないのではないか、とも感じていた。

先日旧友である風間のもとを訪ね、寺島ゆきこの行方を追うことが命題だと言うことがはっきりとしたが、その寺島ゆきこも足取りが全く掴めない。
足取りが掴めないということはすなわちそこに何か大きな情報が隠れていると考えられるはずなのだが、どうにも雲を掴むような状況に辟易しているのかもしれない。この前山中も街中で寺島らしき人物を見たらしいが、結局何もわからず、気のせいだったということで収まったらしいし、もはや正直諦めムードの方が強くなってきているのも事実である。

そして今日からのこの冷え込みで、すっかり事件への熱も冷めてしまったのかもしれない。この事件のことは、ひと夏の白昼夢だったと、ちょっとロマンチックに考えるくらいでちょうどいい。そんな風にすら思っている。

「そうだな。自分でも不思議だったよ。なんだったんだろうな」

「あれ?もしかしてもうやめちゃうんですか?もったいないぁ…でもまぁ、菊野先輩がいつも通りに動いてくれないと他のメンバーも大変ですからね。よかったよかった」

なにやら少し残念そうにしながらも、ふんふんと上機嫌に長谷川は席を離れていった。他の上司であればそう簡単に席を離れられないだろうが、達弘の性格をよくわかっている長谷川は、むしろ近くに長居しないのが正解だということを知っている。本当によくできた後輩だ。

長谷川が離れた後も、他の同僚が入れ替わり立ち替わり菊野の近くの席を訪ねてきた。皆誕生日のお祝いと、最近の自分の奇行(とはっきりとは言わないが)についてたずね、程なくしてまた席を立つ。自分では無自覚のうちに、周りの人間に随分と心配をかけていたことに気づき、達弘は少し反省した。単純に仕事の面で周りのメンバーに負担をかけてもいただろうし、いい加減よくわからない事件のことで頭をいっぱいにするのをやめようと、気持ち改めることにした。
頭の片隅には置きつつも、あくまでも目の前の仕事を中心にする生活に戻ろうと決めた。

達弘をお祝いする巡業もひとまわりして、最後に山中がやってきた。山中とはしょっちゅう話しているし、最近は例の事件の件でも連絡をとっていたから、今更改まってする話もない。

そう思っていた。

「お前ももう32か」

ありきたりなツッコミ待ちのセリフに、面倒ながらも達弘は答えた。

「お前も同い年だろ」

かっかっかと小気味よく笑い、山中はビールを飲んだ。奥さんにも今日は飲んでもいいと言われているのだろう。気兼ねなくお酒の席を楽しんでいるようだ。

だがどこか、達弘は山中にいつもと違う気配を感じていた。

「どうかしたのか?」

山中はほんわりと酒気を帯びた顔のまま、声だけは少しトーンを下げて答えた。

「この前、寺島ゆきこらしき人物を見たって日、あっただろ?」

やはり、この話だ。

「あの日、小さい古本屋に行ったんだよ」

「古本屋?」

「そう、でよ、この本を買ったのよ」

そう言うと山中はジャケットのポケットから薄い文庫本を一冊取り出して渡してきた。

「これ、やるよ。誕生日プレゼントだ」

200ページほどの厚さで、白い表紙のなんの変哲もないその本には、タイトルも作者も書いていなかった。中をパラパラとめくるとどうやら中身は普通に書いてあるようで、小説のようだった。

最後の方のページを見ても出版社や著者の情報は書いていないようだった。誰かが自費出版で作ったものなのだろうか?

さほど劣化していないことから、比較的最近作られたものであることはわかる。

詳細を聞こうと思って顔を上げると、山中はもう元の席に戻っていた。達弘はまた今度聞くことにして、その小説を自分のポケットに仕舞った。

飲み会は程なくして終了し、二次会に行くもの、帰るものとに分かれた。
達弘は本日の主役ではあったが、皆の目的はもう果たされていたため、引き止められるテイだけをひとしきりして、帰路についた。

皆からもらったプレゼントの入った紙袋と、ポケットの文庫本の重みを感じながら、冷え込んだ夜の街を再び歩いていく。

二次会に行く数名の背中をちらっと見ると、やはりその中心には山中がいた。なんだかんだ、10年一緒に働いている男だ。自分には持っていないものをたくさん持っている。

自分はこの事件のことをもうほとんど諦めてしまったが、「呪い」とまで言ったあの男は今どう思っているのだろう。さっき本を渡すときの山中の顔は、ほんのりと寂しそうでもあった。あの男がそう簡単に諦めるとは思えないが、家族のための有給を使うほどの意味があるのか、迷ってもいるだろう。

珍しく他人の心情に心を寄せていることに気がついて、達弘は少し飲みすぎたかと我に帰った。上着のファスナーを一番上まであげて、寒さを堪えながら家路を急いだ。

山中が行方をくらませたのは、その次の日のことであった。

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