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10.長い5分(お題:こんちくしょう)

秋の夕暮れというのは、どうしてこんなにも気持ちをセンチメンタルにするのだろう。子供の頃から刷り込まれた、いや、下手すると遺伝子レベルで刷り込まれた感情なのではないかとも思う。古代には夜というものが今よりもずっと恐るべき暗闇だったと考えると、夕暮れというのはいわば死へのカウントダウンと同じで、動物は自然と危険を察知し警戒する状態になるのだろうか。だとしても、このなんとも切ない気持ちというのとは少し違う気もする。警戒心というよりは、むしろ死を受け入れて静かにその時を待つような、そんな感覚の方が近い。

息子の保育園のお迎えに行く道中にこんなことを考えてしまうのは、妻に先立たれて3ヶ月ほど経った今でも、そのことを受け入れきれていないことの証明なのだろう。

いつもは妻がやってくれていたお迎えを自分がすることで、妻の生きた日々をトレースしているかのような気になる。妻もきっとこの道を歩いていたに違いない。家から車で行くほどの距離ではない、5分ほどの道である。仕事を早めに切り上げて一度帰宅し、色が変わり始めた銀杏並木を横目にとぼとぼと歩けば、すぐに息子の保育園にたどり着く。妻はこの道を、何を思いながら歩いていたのだろうか。

あっという間に過ぎ去った残暑が今では名残惜しい。
時々吹く、痛みを感じるくらいの冷たい風が眼を刺し、うっすらと涙を浮かべさせる。

それが妻のことを思い出しての涙と勘違いしては、慌てて拭う。

我ながら、感傷に浸りすぎではないかというくらい、妻がいなくなった傷はまだ癒えていない。

それは息子も同じで、むしろ息子の方がより深刻に妻の死を受け入れられないでいる。父親である自分がそうなのだから当然だが、息子は今でも母親がどこかにいると信じている。

先日も街へ出かけた時、息子から一瞬目を離した隙にいなくなったかと思えば、近くの警察署に駆け込んでいた。妻が亡くなった時に一度、調べを受けるために一緒に行った署を覚えているのだろう。その後何度か連れて行けと言われて連れて行ったことがあった。その度に息子は目についた警察官に手当たり次第「お母さんをさがして」と言うのだ。「さがして」という言葉が、母親が生きてどこかにいると信じている、もしくは信じたいという気持ちの表れなのだろう。

そんな息子をいつも、ただ抱きしめて一緒に泣くことしかできない自分が恨めしい。

5分という時間はこんなにも長かっただろうか。楽しい時間はあっという間に過ぎ、辛い時間は長く感じるものだとしたら、自分にとってこの保育園への5分間は、辛い時間なのかもしれない。

妻を亡くし、息子と二人。もうこの世に息子以上に大事なものなど何一つもない。

だけど、その息子と同じだけ大切なものを失った悲しみと、息子から大事なものを奪ってしまった後悔が、息子と二人の時間を辛いものにするのだ。

妻が死んでしまった理由が、何一つわからないまま、なす術もなかった。

警察から、妻の死に事件性はなくただの突発的な心臓発作による死だと告げられた時、何をどうしたらいいかわからずただ流れに飲まれることしかできなかった。

ようやく妻の遺体が帰ってきて、ちゃんと供養してあげなければという気持ちだけで、なぜ、どうして、妻が死んだのか、そのことと向き合うことから逃げただけかもしれない。

仮に何かしらの事件に巻き込まれて妻を死に追いやった犯人がいたとして、自分は復讐しようだとかそういう大それた行動をできる人間ではないこともよくわかっていたから、そんな弱い自分を知りたくもないから、妻の死をそのままにしてしまったのだ。

つまるところ、自分はこんな状況においても、息子や妻のことではなく、自分のことしか考えていなかったのかもしれない。

なんと、情けないことか。

気がつけば、保育園の入り口を目の前にして、しばらく立ち止まっていた。
長い5分を過ごしていたのではなく、実際に5分よりも長い時間ここに立っていたのだろう。

どんな顔をして息子を迎えたらいいのだろう。自分は今、どんな顔をしているのだろう。

大抵いつも、保育園の先生の笑顔を見て、自分がどんな顔をしているのか知るのだ。哀れみと、優しさと、影響を受けないくらいの距離をとった笑顔を見て、自分がよほど酷い顔をしているのだということを理解する。

意を決して、保育園の入り口を進んでいく。
とっくに聞こえていたはずの子供達の賑やかな声が、ようやく耳に入ってくる。

雑音と、保育園の先生の笑顔と、息子が自分を見つけて駆け寄ってくる気配と、いろんなものが混ざりあって目眩がする。
どこからかひどく鼻をつく匂いすら感じる。当然そんな匂いはしていないはずだが、生ゴミをしばらく放置したような腐敗臭が、頭に直接吹きかけられているような気分になる。

なんとか正気を保ったまま、挨拶とお礼を済まして、足早に保育園の敷地から出ていく。

保育園の入り口から少し離れたところで、ようやく五感が正常な機能を取り戻した。

「ねぇ、お父さんってば」

息子が自分に話しかけていることはわかっていたが、どうにもうまく答えられていなかったらしい。

「これ、今日作ったの」

息子の手には、折り紙で作った鳥のようなものがあった。

「鳥さんか」

「ちがうよ、タカだよ。タカは目が良いんだってさ。だからね、タカさんに空からお母さんを探してもらうの」

「そうか、タカさんは目がいいんだな」

息子が口にした「お母さんを探してもらう」という部分には触れることなく、息子の話を聞き流すことしかできない。なんと情けないことか。

「でもね、鳥さんは夜は目が見えなくなっちゃうんだって。だからね、夜はヘビさんに探してもらうの。ヘビさんはね、見えないものもみえるんだって」

一生懸命に話す息子の声が、どんどんと遠くなっていく。
こんなに大切なものなのに、今すぐ手放して、一人でどこかへ行ってしまいたい衝動に駆られる。自分は父親として、何一つ息子にしてやれない、どうしようもない人間だ。

今この瞬間こそ大事にすべき時間だとわかっているのに、こうして自分のことしか考えられなくなる。弱く、弱い。そんな自分に怒りが湧いてくる。どうしようもないこん畜生め。

いっそのことーー

決して口にしてはいけない、考えてはいけない言葉の一歩手前で、ふと我に帰る。
右手には、息子の手の感触がある。

急に膝から下の力が抜けて、へたり込んでしまった。

息子と同じ目線になり、ようやくまともに息子の顔を見る。

目は、妻によく似ている。少し垂れ目で、綺麗な黒目をしている。
鼻は、自分に似ていると妻は言っていた。確かに、少し潰れ気味ではあるが、自分の子供の頃の写真とよく似ている。

こんなにも愛おしいものを、手放してなるものか。

この子のために、もう一度自分は父親にならなければならない。

そして、母親の代わりにもなってあげなければ。

妻の分も、この子に愛情を注がねば。

「お父さん、大丈夫?ひざ痛くない?」

「あぁ、ごめんな。ごめんな…」

そのまま、息子を抱きしめた。

いや、もしかしたら逆かもしれない。息子に抱きしめてもらっているのかもしれない。

そして、息子の中にいる妻に、抱きしめてもらっているのかもしれない。

結局、行きも帰りも5分以上の時間をかけて、家に帰ってきた。
息子が生まれる時に、ローンを組んで買った一軒家だ。新築ではないが、妻とお腹の中にいる息子と、3人の未来を思い浮かべて買った家だ。

これからは息子と自分の二人だが、それでもこの家をちゃんと守っていこう。

「佐藤徹(さとうとおる)さん、ですね?」

玄関のドアを開けようと鍵を取り出したところで、不意に後ろから声をかけられた。若い女性の声だ。振り返ると、えらく美人な女性がいた。見たことのない女性だが、見覚えのある動きをした。

ポケットから手帳を取り出し、ドラマさながらなセリフを言ったのだ。

「警察のものです。奥様の件で少しお話しを伺いたいのですが」

凛々しいその声は、秋の乾いた路地に響いた。

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