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29.底知れぬ闇(お題:干からびた蜜柑)
深見七恵は珍しく興奮していた。ついに例の事件が、再び事件として扱われるようになるかもしれないからだ。
先日の寺島ゆきこからの相談を受け窃盗事件として調査を始めたが、程なくして彼女から犯人とおぼしき「星野葵」という名前を思い出したと連絡があった。そして窃盗事件が怒ったのは九州は福岡だったという話で、一気に我々の管轄を離れるかと思った矢先、先輩である岡島が寺島ゆきこになりすましている可能性のある人物を発見した。それが上司の中條が心筋梗塞で倒れた日のことで、とにかくあらゆることが一気に起きて署内は軽いパニック状態になっていた。
それでもすぐに星野葵の身元は調べられ、寺島ゆきこと偽っていることが明るみになった。公文書偽造罪と私文書偽造罪の名目で、ウチの暑で身柄を拘束することとなる。
そしてついに七恵は星野葵と対面することになる。
取り調べ室に入るのはどれくらいぶりだろう。実は七恵は前の署でも入ってすぐにパワハラに反旗を翻し干されているので、まともに事件に関わって捜査や取り調べをしたことがないのだ。今回は中條さんが入院中で、本来なら先輩である岡島が担当するところだが、七恵がこの件をずっと追いかけていることを知ってくれていたので、やってみろと送り出されたのである。
前にいた署と比べ恵まれた職場だと思いつつも、初めての取り調べの緊張感の方が強くやってきた。こう言う時は父親の言葉を思い出すのだ。
ーー盗人にも五分の理を認めよ。誰にだってその行動に至る「理由」があるんだよ。
そう、取り調べは容疑者を責め立てる場所ではない。容疑者となったその理由を聞いていくのだ。もし冤罪だとすればそこで必ずわかるはずだし、本当に犯人だったとして、人としての尊厳を守り、更生して再び社会に出るために必要な時間とするのが我々警察官の存在意義だろう。
七恵は腹を括って取り調べ室に入った。
取調室に入った七恵は、部屋を間違えたかと疑った。過去に取り調べを見学した時には、いつも必ず負の空気に満ちているというのが当たり前だった。しかしこの部屋は、そんな空気は全くせず、リラックスした空気に満ちていた。決して明るい部屋ではないが、午後の西陽が差し込んだような気がするくらいである。
そしてその雰囲気を作っているのは紛れもなく、そこに座っている星野葵である。なんせこの部屋には七恵と星野しかいないからである。
星野は背筋をピンと伸ばして座っていた。それでいて緊張しているわけでもなく、いたってリラックスしている様子である。
細身で白い肌は透き通るようで、化粧っ気がないが整った顔立ちでとても美しい。一瞬見惚れかけて、慌てて気を取り直す。
「はじめまして。取り調べを担当します。深見といいます」
「はじめまして。刑事さんって皆さんとても丁寧なんですね。ドラマで見るのと違って驚きました」
思った以上に喋る星野にペースを握られそうになるのを必死に隠しながら、七恵は席に着いた。
「もう聞いているかもしれないけど、今回あなたにかけられている容疑は公文書偽造罪と私文書偽造罪です。寺島ゆきこさんの身分証などを複製・偽造し、本人だと偽って仕事をしていましたね」
「深見さん、聞きたいのはそのことじゃないでしょ?」
完全に相手のペースである。七恵は星野が相当なメンタルと頭脳の持ち主であることを直感していた。どうにかしてペースを取り戻したい。
「質問に答えていただきたいのだけど」
「もちろん、質問には答えるわ。でも、深見さんが本当に聞きたい質問をしてくれなきゃだめ」
七恵は仕方なく、星野のペースに乗ることにした。
「では、どうして寺島ゆきこだと身分を偽っていたのですか?」
何かを確かめるように星野は七恵の顔をじっと見つめて、それから答えた。
「そうね、これはちょっとした実験よ」
「実験?」
「そう、どうしたら自分以外の人間になれるのかなって、興味があって」
昼休みに趣味の話をするくらいのテンションで話す星野に、七恵は少々困惑していた。この人の行動の理由には何か共感できない闇を感じる。
「どうして彼女を選んだのですか?たまたま身分証を手に入れられたから?」
星野は少しだけつまらなさそうな顔をして、仕方ないといったふうに答える。
「ちょうど良かったの。私と似た背格好だけど全然違う性格で、違う世界で生きてきた人だから。この人になってみたら、面白いかなって」
「彼女とは、福岡の旅行先で出会ったのですよね?それも一瞬しか関わっていないと」
星野の表情から段々と笑顔が消えていく。
「あのね、深見さん。そんな突発的な行動で、他人になり変わるなんてできるわけないでしょ。彼女のことはこの街にいる時からずっと見ていたのよ。調べ尽くして、あとはタイミングを見計らうだけだった。彼女がこの街を離れるタイミングをね」
ひとしきり話して、七恵が驚いて全てを飲み込むのを待たずに、星野は続けた。
「ねぇ、聞きたいのはそれだけ?もっとあるでしょ?気になること」
七恵は、目の前にいる星野という人間が想像よりもはるかに恐ろしい人間であることをようやく感じ始めていた。自分の手に負えるのだろうかという不安が七恵を襲い始めていた。
「あの、三好佳苗と小柴道夫のことを知っていますね?2人が亡くなったことにあなたは関与しているのですか?」
星野はニコッと表情を明るくして答えた。
「そう、それよね。深見さんが本当に聞きたかったことって。でもね、残念。確かに私は寺島ゆきことしてあの人たちに関わってはいたけど、2人の死に私は関与してないわ。そもそも2人とも他殺じゃないわよね」
もっと聞きたいことがあるでしょ、と星野が目で訴えているのがわかる。実際、七恵には本当に確かめてみたいことがあった。
「もし、もしあなたが関わらず、そして他殺ではなく2人を死に追いやる方法があったとしたら。それならどうでしょうか?例えば、呪いみたいな」
自分がすっかりと弱気になって下手になってしまっていることに、七恵はまだ気が付いていなかった。
「深見さん、これ録画と録音されてるって忘れてる?刑事さんがそんなオカルトなことを言ってもいいの?また左遷させられちゃうよ」
意地悪な笑みを浮かべながら、星野は七恵の方を見つめ続ける。
七恵は、自分がずっと認めず口にしていなかった「呪い」という言葉を口にしてしまったことと、自分が左遷されてこの署に来たことを星野が知っていること、その二つに驚いていた。
そして当然のようにそんな七恵の心情を星野は手に取るようにわかっているようだった。
「ごめんなさい、深見さんかわいいからちょっといじわるしちゃった」
まるで七恵を落ち着かせるためかのように、星野は話し始めた。
「ねぇ深見さん、みかんを食べた後の皮って、どうしてる?」
突拍子のない質問に、つい素直に答えてしまう。
「どうするも何も、そのまま捨ててます…」
「あら、もったいないわね。みかんの皮はね、乾燥させると『陳皮』っていう漢方薬とかにも使われる素材になるのよ」
突然の関係のない話に、七恵は戸惑うことしかできない。
「陳皮はね、漢方としてはもちろん、お菓子にしたり、お茶にしたり、入浴剤にしたり、お掃除にだって使えるのね」
七恵の戸惑いを無視して星野は話し続ける。
「困った顔してるわね。ちゃんと聞いてる?つまり何が言いたいかって言うとね、たかがみかんの皮一つが、それだけたくさんの使い道があって、違う顔をもってるってことなのよ」
星野は七恵の顔を再びじっくりと見つめている。
「深見さん。あなたまだまだ想像力が足りないわ。呪いなんてチープな言葉で片付けないで。2人の死も、きっともっといろんな見方ができるはずよ」
七恵が何もいえずに困ったままなのを、星野は楽しげに見ている。
「大丈夫よ、私は別に罪を逃れようなんて思ってないから、安心して。でもね、2人を殺したりなんかしてないのはほんとよ。もちろん呪いなんてものもかけてないわ。あ、でも深見さんとはもっとお話ししたいから、簡単には終わらないようにはするからね。次も楽しみにしてるわ」
七恵はもうすっかりと手籠にされて、何を言えば、何を聞けばいいかもわからなくなっていた。呼吸が浅くなっているのがわかる。嫌な汗も出てきたところで、取調室のドアが開いた。
先輩の岡島が入ってきたのだ。
「深見、交代だ」
七恵はこくりと頷いて席を立った。部屋を出ようとした時、星野がまた話しかけてきた。
「そういえば、あの本を書いたのは私だってもう聞いてた?まだかしら?今度はその話をしましょうね」
にっこりと笑って七恵を見送る星野が、悪魔のように見えた。部屋に入った瞬間のあの明るく軽い空気の面影はなく、生きてきた中でいちばんのプレッシャーをかけられた気がする。
これはただ初めての取り調べの緊張とかではなく、間違いなく星野葵に受けた影響なのだろうが、七恵にはまだ彼女が一体どんな心持ちで生きているのかが全くわからなかった。そしてどこか心の中で、理解しちゃいけないという警報も鳴り続けているのを感じていた。
ここ数ヶ月、2人の死をきっかけとして調べ始めたこの事件。調べるほどに謎が増えるような不思議な事件であったが、その背景にはもっと得体の知れない、悪意とも違う何かが潜んでいたことを知った七恵は、人生で初めて自分の心が折れる音を聞いた気がした。