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09.宿る炎(お題:暴れるこども)
深見七恵(ふかみななえ)は目の前の書類の山を見つめながら、つきたくもないため息をついていた。本当ならこんな田舎の署ではなく、都内の署でバリバリに警部をやっているはずだったのだ。
いわゆるテレビドラマに出てくるような刑事を父に持つ七恵は、当然のように憧れ、自分も警察官を目指した。父親は反対こそしたが、七恵がそんなもの気にも留めないくらいに頑固なこともよく知っていたので、ノンキャリアで苦労した自分の反省を七恵に伝えた。
七恵は父親の教えのとおり、有名大学から警察官へとなるキャリアコースをしっかりと踏んだ。しかし誤算は、実際に警察官として働き始めてからも七恵の強すぎる正義感と頑固さが大きく影響してしまったことだった。
七恵はいわゆる世間一般にいう美人の部類で、学生時代から告白されることも多く、男性との付き合いもそれなりにあった。いくら時代が進んだとはいえやはり警察という環境は未だ古い時代の慣習が多く残っており、その中で七恵はしっかりとセクハラやパワハラを受けることになる。
そこで大人しくいうことを聞いていればスムーズにキャリアを進められたのだが、持ち前の正義感と頑固さで、一切のセクハラやパワハラを受け付けず、しっかりと上司を告発し、署内で悪目立ちをすることになった。
本当ならば今年から警部になって然るべきタイミングであったが、依然として階級は警部補のまま、しかも東京からはるか北の署に飛ばされることとなる。
一応、北の大地においては一番の都会であるS市の中央署の配属ではあったが、東京に生まれ育った七恵からするとそこは田舎も同然で、父親が活躍した環境とは大きく違うことに落胆をせざるを得なかった。
唯一の救いは、この署での七恵の上司に当たる中條和真(なかじょうかずま)という人物が、かつて父親と一度仕事を共にしたことのある刑事で、父親曰く「今どきなかなかいない骨のあるやつだ」とのことで、七恵にとっては最高の上司になりうる人物であるということであった。
しかし、いざ配属されて出会ったその男は、父親が言っていたのとは大きく違う、なんとも腑抜けた状態であった。管轄内で何か事件やいざこざが起こっても、なるべく穏便に、何事もなかったように処理しようとして、七恵がもっと調べましょうと言っても「まぁ好きにしな」と歯応えのない答えが返ってくるだけで、自分はほとんど動こうとしないのである。
セクハラもパワハラもなければ、指示も指導も反論も何もない、七恵は異動していきなりほぼ一人で動かざるを得ない状況になった。他のチームメンバーに聞いてみると、こんな状態になったのはほんの最近のことらしいが、どうしてこうなったのかは誰にもわからないそうだ。
中條は現場に出ないだけならまだしも、書類などの雑務もほとんどやらないため、七恵がこうして書類の山と戦う羽目になっているというわけだ。
書類の山と腑抜けた中條の姿を横目に、七恵はもっと現場に出たいと強く思っていた。どんなに古い考えと言われても、現場百遍という父の教えが七恵の信条だからだ。何はなくとも現場に出て街の人を見る。その日々の小さな積み重ねが、いざという時に市民を守る何よりの力になるのだと信じている。それができないことが何よりも悔しい。いっそのことセクハラを受け入れてでも現場にもっと情熱を注げる環境を選べばよかったとさえ思うほどに、七恵は今の状況に閉塞感を感じていた。
そんな悶々とした気持ちでいると、署内が何やら騒がしいことに気がついた。
署の入り口ホールのあたりで誰かが騒いでいるようだ。
人形のようにぼうっと座ったままの中條に一言、「ちょっと見てきます」と律儀に声をかけ、七恵は騒がしい音のする方へ向かった。
玄関ホールの方へ行くと、何やら甲高い泣き声が聞こえてきた。警察署には時々ヒステリック状態の女性が喚きながら入ってきたりということがあるのでそういった声には慣れていたが、どうにもそういった声とも違うようだ。
こちらからは、何人かの警察官の背中が見えるが、泣き声の主の姿は見えない。さらに近づいてみると、その正体が見えてきた。
子供である。
5歳くらいであろうか。七恵の5歳になる姪っ子、兄の子供がちょうど同じくらいの背丈なので、そう目算した。服装から見るに幼稚園か何かの帰りだろうか。だとしたら親はどうしたのだろうか?一人でここまできたのだろうか?そんなことを考えていると、子供の泣き喚く声の中で微かに聞き取れる単語があることに気がついた。
「お母さんをさがして」
確かにそう聞こえた。普通に考えればこの子の方が迷子で、母親が探しているのだろうが、一体どういう状況だろうか?
七恵は近くにいた警察官に状況を聞いてみた。
「何があったの?この子は?」
「それが、、、」
何やら答えにくそうにしている。どうやら七恵が異動してくる前にもこの子に関連して何かがあったのだろう。七恵がとにかく情報を聞こうとすると、後ろから誰かが代わりに答えた。
「佐藤郁江(さとういくえ)の子供だよ。また来てんのか」
七恵が振り返ると、そこには中條がいた。まともに立ち上がっているのを久々に見た気がするが、しっかりと鍛えられた大きな身体は、まだちゃんと刑事のそれである。
「佐藤郁江?誰ですか?事件の関係者ですか?」
中條は面倒そうにしながら答えた。
「今年の夏の不審死の遺体だ。事件性はなしで、とっくに捜査は終わってる」
夏の不審死。
七恵が異動してくる前のことですでに処理された案件であるから、当然初耳の案件である。
「まったくよ、おいガキ」
中條は子供に詰め寄ると乱暴に言い放った。
「いいか、お前の母ちゃんは死んだんだ。事件でもない。いいか、死んだ人間は帰ってこないんだ。お前はこれから母ちゃんのいない世界で生きるしかないんだよ。わからないだろうが、わからないならさっさと帰れ」
そういうと中條は行ってしまった。
子供は相変わらず泣きじゃくり、待合室に連れて行かれた。
そこへ、七恵と同じ部署の先輩の岡島哲也(おかじまてつや)が帰ってきた。
「また、あの子ですか」
「お疲れ様です。前にも同じようなことが?」
「あぁ、夏の事件の後はよく来ていたよ。お母さんを探してってね。」
「中條さん、随分冷たくしてました」
「そうかぁ。事件のあった当時はもっと本気で捜査していたんだけどなぁ、中條さんも。ある時急に、全く事件のことは関心がなくなったみたいで。」
「え、じゃあ、今のあのやる気のなさもその頃から?」
「そうだね、その事件に関心がなくなるのと同時に、何もかもやる気を無くしちゃって。困ったよなぁ。君も、運の悪い時にうちのチームに来たよね」
そう言うと岡島はそそくさと部署の部屋の方へ歩いて行った。
その背中を見ながら、七恵の中では何かが熱くなり始めていた。
夏の事件。
泣いている子供。
やる気を無くした上司。
七恵の中の正義感が、七恵を捲し立てていた。
ーー私がやらなきゃ、誰がやるんだ!
七恵は先輩の背中に向かって叫んでいた。
「岡島先輩!私の机の上の書類、お願いします!」
「え?ちょっと!深見くん!」
戸惑う先輩をよそに、七恵は事件の資料がある書庫へ向かった。
七恵には父親譲りのものが、その正義感と頑固さ以外にももう一つあるのだ。
それは、『刑事としての勘』である。七恵には、この件が何の事件性もないものとは思えなかった。そして七恵はその直感を疑うこともなかった。