母親のこと


流行りといったらあれだが、
巷で定着しつつある、発達障害(という言説)、
その特徴とされる性質を
私の母はかなり多く有している。

字面どおりになんでも受け取るとか
細部に異常にこだわるとか
自分ルールがめちゃくちゃ多くてそれに抵触する行動を取るものを決して許さないし、どんな状況でも自分ルールを貫くのを優先させるとか。
いわゆる「アスペ」っぽい感じである。

叔母がいうには昔からそうらしい。
美人だから許されてきただけで
身内からは偏屈で変わり者と称されてきたと。
昔は発達障害なんて言葉はなかったから
まあそういうふうに括られていたんだろう。

***

母は長女で、妹がたくさんいる。
祖母は妹たちの妊娠出産のために
幼い母を親戚の家に長いこと預けていた。

祖母と姉妹と腰を据えて同居し始めたのは中学校に入ろうかという頃合いで、
おそらく寂しい幼少期を過ごしたんだろう。
同居後も幼い妹たちの世話を担う側にずっといた。
高校の友達と遊びに行くのに
末の妹をおんぶしていったわよ、と話していた。
当時はそんなの当たり前だったんだろうけども。
愛情不足のまま大きくなったと思われる。
年始に祖母や他の姉妹が集まると、
母はなんだか浮いていた。

その反動なのだろうか、
母は私と姉に対し、
スーパー過干渉であった。
なんか鬼気迫るものがあった。
子供心に、なんかよそのお母さんと違う、と感じていた。

自分が母親にやってもらいたかったことを、全てやっていたんじゃないかと思う。

また

母親にやってほしかったことを
娘たちにやってもらおうとしていたように思う。

矛盾した話に付き合ってほしい、
気持ちをわかってほしい、
感情に寄り添ってほしい、
どんなに理不尽なワガママにも
つきあってほしい。

それらはすべて矛盾した命令と
癇癪として表出し、

私と姉とを混乱に陥れた。

私たちの前から、ありとあらゆる困難な作業を排除し、
焼き魚の小骨の一本一本まで丁寧に取り除くような、
かいがいしく過剰な世話をやく姿はまるで母親を通り越して召使みたいだった。
靴紐なんか自分で結べるのに、
解けてるわよ!と大袈裟に騒いで、
往来の真ん中で傅いて結ぶとか。
自分でできるよ、やらせてよ、言っても絶対に聞かなかった。
周りの人にジロジロ見られて、恥ずかしかった。尽くすことが愛することだと妄信しているようだった。
私と姉がなにか失敗しそうだと全て先回りして母がやってしまう。
姉に何か質問すると、姉の前に母が答える。
自分と娘の境界が非常に曖昧な人であった。


同時に、母は些細なことでコロリと顔色を変えて怒鳴り散らす恐ろしい女王でもあった。
細部に渡る複雑な母独自のルールを遵守するのが大変だった。
言葉によるコミュニケーションが苦手な彼女は、不機嫌で娘たちを支配するというラクな道を選び続けた。

たぶんパートしながら育児して、
高齢出産だったから更年期もきて、
ずっと単身赴任していた夫は赴任先で鬱病になって自殺未遂の末に帰ってくるし、
実母や実姉妹とは心理的に距離があるし、
地元から離れてて友達もいない、

全てのストレスを
家の中で発散させていたのだろう。

萎縮して追従することを選んだ姉には反抗期がなかった。

姉の分まで私は反抗した。
壁に穴を開けたり
ベッドの足を素手でへし折ったり
窓ガラスを割ったり
癇癪を起こした母親の髪の毛を掴んで顔を拳でぶん殴ったり、殴り返されたり
家出をしたり
取っ組み合いの喧嘩も数多くした。

姉はコッソリ陰から見ていて私の反抗を応援していた。家出中に、頑張ってね、必要なものがあったら言ってね、とメールが来たりした。

父は薬の影響でドロンとしていたし
長く家を不在にしていたため
妻と思春期の娘たちと距離ができて
コミュニケーションがうまくとれず
酒に逃げた。
母が癇癪を起こすと黙って酒瓶をもって
家を出ていき、車に籠っていた。
卑怯者め、と私は心底軽蔑した。ひどい娘だった。
抗うつの薬を飲みながら毎日一生懸命働いて、
帰宅したら妻がヒスってて娘たちは難しい年頃で、
父もいっぱいいっぱいだったんだろう。
私も学校で顔を笑われたり、キモがられたりしていて全然余裕がなかった。

母はたぶん、
頑張ってるね、
いつもありがとうね、
ってギュッと抱きしめられて背中をさすられるような、
そういう経験が必要だったんだろう。
ていうかあのときの家族全員そうだ。

支え合えばよかったのだ。
労わる
という文字は我が家の辞書になかった。
詰り合いストレスをぶつけ合うのがうちのコミュニケーションだった。

むろんこれは我が家の一側面に過ぎず
そんな時代でも楽しい瞬間があり
みんなが笑顔になったときももちろんあった。
昔の歌にあるように、
ダイヤモンドみたいなもんだ。
悪いところだけ集めて編集したら上の記述になる。

そういう時代も経て
どうにかこうにか
落ち着いた。

今では、
父の鬱は治ったし
結婚して家を出た姉は、母に意見を言えるようになったし、
母は自分ルールをかなり柔軟に引っ込められるようになった。また、癇癪なしに落ち着いて自分の要望を言えるようになった。

怒鳴らなくても暴れなくても家族は自分の話をちゃんと聞いてくれる、

という実感がここにきてようやく浸透したのではないかと思っている。
私たちも、成長して、聞ける姿勢がとれるようになった。

家の中がマックス荒れていたときは、
帰るとき、誰か死んでるかもしれないと覚悟していた。
プッツンした姉が母を刺し殺しているのではないか?
泥酔した父が母を殴り殺しているのではないか?
ヒスの引っ込みがつかなくなった母が父を刺しているのではないか?

家に押しかけるマスコミとか
私が喪主をやる場合の挨拶とか
血の海のリビングとか

そういうのを思い浮かべながらドアを開けていた。

いま、結婚した姉がたくさんお土産を持って帰ってきて、
4人でご飯を和気あいあいと食べていると、
遠くへ来たもんだと思う。

***

事実として私の心に爪痕は残っている。

不機嫌を人前で露わにする人と、酔っ払いが嫌いだ。

接客業は私に向いていた。
他人の顔色を伺うコミュニケーションが得意だし、接客してありがとうとお礼を言われると心が満たされた。
(同僚との関係はなかなかうまくいかなかった。対等で継続させなきゃいけない関係が苦手だ。)

今の事務仕事は誰からもお礼を言われないし、ストレスが多い。そういう意味ではマジで向いてない。

こういった性質の原因のひとつは母だと思うが、母を責めるつもりは今はない。昔はあった。責めても何の意味もないなと思うようになった。

視野狭窄で変わり者でコミュニケーションが苦手な彼女なりのベストを本当に尽くしてくれたと思う。
あれ以上の振る舞いを求めるのは彼女の能力的にナンセンスだ。ペンギンに空を飛べというようなものだ。
彼女のそういう部分から学んだこともあるし。

可愛い猫と暮らせたし、綺麗な景色も見ているし、素晴らしい出会いもあった。

産んでくれてありがとうである。

あとは他人の力を適切に借りながら、地道に考えて、試して、失敗して、自分でやっていくしかない。


母のアスペ気質を私はしっかりと受け継いだ。
美しい容姿は受け継がなかったのに。

しかし、
容姿の悪さゆえ他人から嫌われやすく、
ひとりぼっちの時間が多かった。
いろいろ分析する時間がたくさんあったのは利点であった。私はこの点では明確に母という旧型を超えていると思う。

この顔は、そう意味では進化である。

美しい容姿を持っていたが故に、
母は自らの精神の可能性を開拓する機会が制限されていたと思う。自分の気持ちを自覚できない、うまく言語化できないまま、家族を持ち、最も近い他人である家族とのコミュニケーションで問題を抱えることになった。
それがあの癇癪と、一家の暗黒時代とに直結している。

私は違う生き方ができる。
それは希望だ。

しかし醜い容姿ゆえに
今のところ
誰かと結婚するとか
子を産み育てるというのは考えられない。
あんまり自分について卑屈なことは書きたくないのだが、もしこの顔が遺伝したら気の毒すぎる、というのが正直な気持ちだ。

次世代を残すか残さないかという意味では進化失敗かもしれない。
まだわかんないけど。
遺伝子も実験的なことをいろいろやるんだな。

***

2024秋に書きかけて、なんとなく公開していなかった記事に手を加えました。
年内の宿題を提出するような感じで、スッキリしました。

読んでくださってありがとうございます。

仕事納めた方も多いと思います。
お疲れ様でした。

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