道具性

司法試験に受かるために必須な、論証というものがある。

もともと条文が一次的なルールであるが、
その条文が抽象的すぎるため、現実の事例に当てはめるために、条文の文言を解釈しなければならない場面が出てくる。

その解釈次第で、事案の結論は大きく変わる。
学者先生たちがナントカ説とナントカ説をはげしく戦わせている。

結論が出ていなかったところに、
最高裁がその解釈をババンと提示して事案を解決すると、判例が出たぞー!と法曹界は湧き立ち、学者さんたちがこぞってその解釈の背景や文脈を分析して、批判したり、自分なりのもっと良い解釈を提示したりする、という流れらしい。 

論証というのは、そういう、条文の間隙を埋めるために必須の知識であり、それを知らなければ実務家として事案解決を図ることが難しいというモノである。

受験生は必死こいて論証を覚えるのが、受験勉強の本丸になる。
試験では大体、長々と事例が出る。
xさんとyさんが登場して事件を巻き起こす。
そして、
さあナントカ説の立場から解決してみせよ、
反対の立場からも解決してみせよ、
という感じなのだ。年によって出題形式は変わるものの、
条文を知っているだけでは解けず、判例の示した結論と、その反対の立場の学説を知っておいて、論証を書かなければいけないことがままある。

本屋の司法試験コーナーにいくと、論証集なるものが売られている。

私の予備校の先生は、論証の丸暗記は絶対にするなと口酸っぱく言う。
判例と全くおなじ事例なんか絶対に出題してくれないから、と。応用を効かせるためには、判例の意図をよく理解すること。


また、こんな言葉に意味はない、難しい言葉に引っかかるなともいう。屁理屈です、全ては。ともいう。

合格者と話す機会があったが、文章が難しくてわからないと相談したら、日本語と思うな、外国語と思いなさいとアドバイスをもらった。


それらの忠告の意味が昨日何となく掴めた。

たとえるなら判例の結論が
「新宿駅から東京駅に行きたければ、山手線に乗るべし」
だとして、
新宿駅から東京駅に行きたがっている全ての人にこれを当てはめてよいものだろうか。

この結論が出た事案では「もっと早く東京駅に着くはずの中央線が人身事故で止まっていた」という事情があったことを理解しておかなければ、裁判官の意図はつかめまい。

ここでもっと大事なのは、「山手線」「中央線」という言葉につっかかってはならず、
目的を第一に考えなくてはいけないということだ。

新宿駅から東京駅に行って人は何をするのだろうか?京葉線に乗り換えてディズニーランドに行く人もいるだろう、丸の内でお買い物をする人もいるだろう、皇居を見に行く人もいるだろう、

「新宿駅から東京駅までどうやっていけますか?」と尋ねる人が本当に欲しているのは、
ディズニーランドであり、丸の内のお店であり、皇居なのだ。


民事訴訟を起こす人は「固有必要的共同訴訟」なんて言葉に1ミリも興味がない、ただ自分の権利の行末だけが目的だ。それはリアルに土地だったり金銭だったりする。

検察が公訴を提起するのは公訴を提起したいからじゃなくて、ある特定の人間を刑務所にぶち込むためである…

論証は常に目的がある。その目的はいつだってめちゃくちゃにリアルで、具体的だ。誰かの土地で、誰かの命だ。
ここにおいて論証(と呼ばれる言葉群)は電車のようなもので、ただの道具にすぎない。乗っている人は、目的地に無事着くかどうかだけ考えている(鉄オタを除く)。

論証をむやみに丸暗記するのは、
路線図を上から順番に覚えていくようなものだ。よほど気合を入れないと役に立たないだろう。

論証に出てくる言葉について考え込むのは、
京浜東北線とは?中央線とは?と考え込むのと同じ無益なことである。もちろん、試験に受かるという意味での話だ。学問として学ぶなら別。

***

私は言葉を神棚に飾ってきた。

池田晶子や井筒俊彦によると、言葉でこの世は全てできているらしい。よくわからないが。
言葉はとても大事で、すごいものらしい。

また、文学に触れ、美しいものとして鑑賞もしてきた。置くべきところにあるべき形で置かれた言葉は本当に美しい。

法律の勉強(法学の勉強ではない)をしているときに出会う言葉たちは道具に徹している。そのような姿を初めて見た、というか気づいた。きっとあらゆる場面でそういう働きをしているのに、私に気づく感性がなかったから気づかなかっただけなのだろう。

言葉より大事なモノがあり、言葉はそれを達成するために車輪に徹している。
そして強大なパワーを発揮している。
しつこいけど言葉の使い方によっては人を殺すことも正当化される。
拝まれたり鑑賞されたりするだけではないんだね。と今更ながら感動した。


そして私がコミュ障なのもこの辺に原因がありそうだなと思った。道具的に言葉を使うことを知らなすぎる。

おそらく人々にとって、日々のコミュニケーションは
・お互いの敵意のあるなしを図る
・お互いの健康状態を図る
とかの目的がまずあってなされる。
ここで言葉は円滑に目的を達成するための道具である。

相手の存在>言葉。

だが私はコミュニケーションというものを
・美しく絶対的で独立した言葉をお互いに交換する
ノリでやっていた。
むかしシール手帳ってあったな。可愛いシールを友達と交換する遊び。あんな感じ。

相手の存在<言葉

だった。
相手から発される言葉しか見てなかった。
相手を見てなかった。そりゃ噛み合わないよね。
会話で不快な気持ちにさせた皆さんに謝りたい。

法律の勉強始めてよかったなー
と思いました。

人生学ぶこと多すぎない??
私もう疲れてきたんだけど。
まじでモグラ叩き。
なんかできるようになったと思ったら別の問題がでてきて「ホラ、全然できてないよ」と言ってくる。
そんなのどうせ無駄だからやめちゃえって最近悪魔が囁いてくるんだけど、
そんなにやめさせたいか?
ということはやめないほうがいいみたいだ、
って思う。

頑張ります。


***

寒暖差が激しくて体がどうにかなりそうですね。皆様がお元気であることを祈ります。

読んでくださってありがとうございました。

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