分析:目標
凄まじく長い自分語りであります。
ご注意ください。
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私の課題
何か嫌な出来事があると
洗顔歯磨き風呂だけ入って、あとはスマホを見て寝たきりの生活になってしまう。
ストレッチ1週間くらいしてない。
なんかやってもいいことないから。
いや結果は出ていた。
尻の形が変わったし肩甲骨柔らかくなった。
でも私が望むのは「他人から見てブスじゃなくなること」であって
ストレッチその他の習慣はそこに直結しないから、どんなにボディが健康的に変化しても、他人の言動ひとつで「ほらねやっぱ無駄じゃん」と投げ出してしまう。
最大の問題は、自分の価値を他人の言動で計っていることである。
振り返れば、あまりにも、私は、他人の言動に人生を左右され過ぎていた。
他人にブスと言われたから、暑い夏でもマスクを常につけて生活するようになった。
言われなければそんなことはしていなかった。
帽子を買ったり、伊達メガネやサングラスを買ったりした。
他人に言われてした出費、いくらになるんだろうか。
いつもいつも顔のことを考えていた。仕事の選び方や服装やアクセサリーや出かける場所を考えるとき、いつも顔のことを念頭に置いてきた。
他人に顔について散々言われてきたから。
これはべつに他責したいわけではなく、因果の話である。
始まりは幼少期に、お前は将来美人になるよと刷り込まれたり、姉と容姿を比較されたりしてたからかもしれない。
あれが私のルッキズムの始まりかもしれないが、もともと持っていた素養かもしれない。
***
顔のことで悪様に言われてストレスが溜まると、
本業がおろそかになったり、
家族への態度が冷淡になったり、
友人に当たり散らしたりした。
私は顔のことを考えているようで
他人のことをいつも考えてきた。
これはなんて言われるだろうかって他人の言動を予測して行動することと、
すでになされた他人の言動をもとに、自分のすべきことを考えること、
それが私の人生における大原則で、疑ったことはなかった。
裏を返せば私もそれだけ他人をジャッジし続けてきたということである。
他人の容姿について何も思わないって
今まで書いてきたけど、それはウソだ。
明確に嘘をついてきた。
なぜなら、私の書く愚痴や被害について、
読んでくれた善良な人たちに100%同情してもらうためには、私は正当性を保たなければいけないと自覚していたからだ。
私は同情してほしかったし、
励ましの言葉が欲しかった。
意図的に嘘をついて、ごまかして書くことで、
同情のカツアゲをしていた。
同情されているとき、とても気分が良かった。
純然たる被害者であるということは私にとって心地の良いことだった。
優しくしてくださった方々、すみませんでした。
本当のところ私はあらゆる他人の顔を見て、
羨ましがったり、勝手に仲間意識をもったりしている。
通勤電車や街中で、
ぱっちり二重じゃん、鼻の下短くていいじゃん、余白が少なくていいじゃん、とか思ってる。
可愛い高校生を見ると、
ああ私よりずっと若いけど、私より華やかで希望に満ちた人生をこれから送るんだろうと、今の時点でもうわかるわ、
と勝手に思う。
ぽっちゃりした一重の女子高生を見ると、
この先苦労するかもしれないけど、頑張ってな、
と勝手に思う。
また、ごくたまに私と同種の激オモ一重の人を見かけると、「うわ瞼重い、仲間だ。この人も目つき悪いとか言われたことあんのかな。でも目から下のバランスがいいし肌が綺麗だから、悪口言われたことないかもな」とか勝手に色々考えている。
ぼってり一重の人がおそらく埋没したんだなという感じの二重の人を見かけると、
「今まで辛い経験をして整形したのかな。幅を欲張らずに綺麗な二重にしてるけど、埋没って目を閉じるとわかるもんだな」
とか考えてる。
すごく太っている女性が堂々と歩いているのを見ると、「あれだけ太っていてハラスメントは受けないのだろうか。でも肌がつるんとしていて顔のパーツバランスがいいから、元が美人なんだろうな。私があそこまで太ったら人権がなくなるのに、美人は太る余地まであって羨ましいな」とか思っている。
高校生のときは頭髪のない先生のことをツルピカだねと陰で笑ったこともあった。
当時ブスと笑われて嫌な思いをしてたけど、
友達とツルピカだねと笑うのは、背徳感がありつつ、楽しかった。
悪事を共有するのは、楽しいことだと感じる感性が私にもある。
小学生の時に、私の顔はまだ普通の範囲に収まっていた。
友達が何かの折に「うちのクラスの〇〇くんは頭も良くていい奴なんだけど、すごい変な顔してるんだよ」と言った。そのときはフーンて感じだったが、
翌年、〇〇くんと私は同じクラスになり、隣の席になった。なるほど変な顔をしていると思った。
だから上記の友達と帰るときに、あんたの言うとおり〇〇くんは変な顔してたよと言って、そうでしょ!と二人で笑い合った。
今の職場の同僚にやられたことを私も人にやってきた。数の多寡は問題ではない。
〇〇くんは確かに良い奴だった。
この人いい人だな、という評価は
この人変な顔してるな、という評価と
何の問題もなく両立する。
通り過ぎざまにブスと言ってくる人、
会社で私のことを気色悪いと陰で言い、
目が合うと嫌そうな顔をする同僚たち、
今まであえて明確に書いてこなかったし、
意図的に考えないようにしてきたが、
メンタルはクッキリと鏡写しである。
もし私が彼らより美しい容姿を持っていたら、ブスな同僚に対して、同じように「キッショ」と通り過ぎざまに囁き、トイレで「あの人ブサイクだよね」と心から笑い合っていただろう。自分にぼってりした一重がないことに心から安堵し、親に感謝し、ブスを憐れみ、あんなふうに生まれなくて良かったと、ブスを見るたびに優越感に浸るだろう。
確信がある。
いま言える立場にないから言わないだけで。
言う人たち、言われる私は同じ価値観を共有して、同じ原則にのっとって生きている。
円卓のイメージだ。
料理がたくさん乗った皿もあれば、
空の皿もある。
どの皿の前に座らされるかは運次第で、
美味そうに食べる人と、腹を空かせて指を咥えてじっと見ているだけの人に分かれる。
私と彼らは同じテーブルを囲んでいる。
容姿が悪い、性格も悪い、そうなると他人から承認されることは皆無である。
他人からの承認に絶対的な価値をおくが、それに飢えている人間が、どうやって生きていくか?
私の生き方はその答えの一つである。
性格の良さを偽装して、良い人だよね、という評価(承認)を得る。
被害者であることを全面に押し出し、可哀想だよね、という形で承認を得る。
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なぜ他人にブスと言われたからといって、
常にマスクをつけなくてはいけないのか?
そうせずに、私はいられなかったのか?
息をするように自らも他人をジャッジしていて、それを辞めたくないからこそ、
他人からのジャッジを尊重している。
あくまで私の場合だが、そういう依存関係がある。
たまに、そういう価値観から遠く離れて生きている人に出会う。
他人の言動に一切耳を貸さず、自分のやるべきことにひたすら打ち込んでいる人。
他人が何を言おうとどうでもいい、と本気で思ってそのとおりずっと生きてきた人。
そういう人と話すと、心からほっとする。その人と話す間は、どっちが上とか下とか考えなくていいから。
同時に激しい嫉妬心が湧く。
私だって他人の言動を気にしたくない。でも、できない。なぜこの人はできるんだろう。
そういう人は大体先天的にそうなので、なんでと聞いても明確な答えはなかなか返ってこない。
あるいは、耳タコみたいなシンプルな答えしか返ってこない。
・人生はめっちゃ短い
・自分は自分、他人は他人
そんなの、知ってる。知ってるよ。
知ってるけど、できないんだよ。
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でも、できるようになるための努力をしてきたかというと、してない。何にもしてない。
今までの記事も、
職場の人、通りすがりの人の言動がまず絶対的なものとして脳内で固定されてて、
それに対して私がどういうリアクションをとるべきか?というのを命題にしてきた。
そもそもリアクションを取るべきなのか?
については、あまり考えてこなかった。
それを考えると不安になる。
私は、他人からの承認という快楽を得たいのだ。クラスメイトや職場の人や通りすがりの人の暴言は不快なものであった。だから、職場の人を黙らすこと、通りすがりの人に何も言われないようにすること、
それが歪んだ形での承認であり、私の快楽であり、不快になった分のそれを取り戻すことに固執する気持ちもあった。
それを考えるのをやめるということ、
そもそも他人からの承認を欲するべきではないのでは、と考えることは、
後生大事に抱えていた毛布を取り上げられるような不安感を伴う。
あるいは常用していた麻薬をいよいよ断ち切るような気持ちである。
手放すなんて想像できない。
醜さを保ちながら他人からの承認を求めることが私の生きがいで、それを辞めたらどうやって生きていけばいいのか?
どうやって気持ち良くなればいいのか?
でも手放すべきである。
それと、私が理性としてやりたいと思うことは矛盾するからだ。
私は自分のやるべきことにすべてを打ち込んで、今まで良くしてくれた人たちに恩を返したい。あるいは未来の、悩める人たちに何か残したい。
他人の言動にネチネチ悩んで、こうして快楽をしゃぶっているなんて、もう心底嫌なのだ。
この時間を他のことに充てたいのだ。
空の皿に見切りをつけて席を立ち、二度とこのテーブルには戻りたくない。ただ、席をどうやって立つのか、席を立った後にどこにいけばいいのか、30年以上座り続けてきたものだから、皆目見当がつかないし、恐ろしい。
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目標
今の職場を辞めるまでに、
強固に内面化されたルッキズムを引き剥がす。
具体的には、
①ノーマスクにする。
マスクは私にとって、他人の価値観に身を委ねていることの象徴である。他人の価値感に身を委ねないと決めたなら、顔を隠す必要はないはずだ。
②他人へのジャッジをするときに、自覚的に行う。
一切のジャッジをしないというのは、難しい。
どうみても風邪ひいてるなという人から距離を取ったり、なんかこの人危ないなと思ったら逃げれるように、ある程度はすべきである。
ただ、自分の欲求をただ満たすだけの、即物的に行われるような容姿へのジャッジは、頭の中でそれが始まった瞬間に遮断する。
③自分のやるべきことに集中する。
このところ仕事中や家族との会話中も、同僚の悪口や自分の顔について考え込んでいて上の空のことが多い。それを、傷ついてるから仕方ないと自分で許している面もあった。これでは集中力が低下するばかりである。やはり、自分がそのように他人の言動について思い出しているのを感知したら、即遮断するクセをつけておくべきであろう。
感知したら即遮断、は結構効果的な方法と思いますので、
もしお悩みのある方はお試しくださいまし。
私は以前瞬間湯沸かし器並にキレやすかったのですが、怒りを感知したら頭の中でパン!と両手を合わせて霧散させる、を繰り返すことで
随分前に改善しました。
何か新しい技術を得る上で、
数をこなすこと以上の策はない。らしい。
他人の言動を気にしない人に
生まれつくことができなかったけれども、
後天的にその思考回路を自分のものとしていきたい。
また、この記事は、あくまで私の内面を観察して書いたものであって、
容姿に悩む他の人々に当てはまるとは毛頭考えいません。
もしこれを読まれた方の中に、
マスクをつけることで心が休まる人がいらっしゃるなら、それはつけた方がいいし、それはその人のメンタルというか、誰ひとりとして同じ過去を持つ人はいませんし、考え方も違うと思いますので、ご自身なりのサバイバル方法を貫いてもらえればそれが1番いいと思います。
容姿に悩む人が心穏やかに暮らせる日々を、
散々内心で失礼なジャッジをしといてどの口が言うんだという感じですが、祈っています。
長いのにお読みくださってありがとうございました。
急な雨に気をつけて、9月もよい日々にしましょう。
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