僕が高校生のとき「脊髄小脳変性症の母と生きる。」
僕が高校生の時、母(51歳)はまだ、朝ごはんも、お弁当も、夕ごはんも作ってくれていました。
僕が友達を家に連れてきたら、よくコーラで鶏の胸肉を柔らかく煮て友達に振る舞ってくれました。
友達は
「美味い、美味い」
と全部たいらげてくれて、そんな、優しい母が、僕にとっては自慢の母でした。
あと、リンゴを砂糖とレモンで煮たコンポートは絶品でした。あの絶妙な酸味と甘みは、何回作っても同じのができないんです。作り方を教えてもらっておけば良かった。
僕の高校は弁当を持っていかないといけないんですが、身体の悪い母は、それでも週に3,4回は一生懸命お弁当を作ってくれていました。しかし、後半は作るのも大変になったんでしょう。ある日、お弁当の蓋を開けたらお弁当の3分の2ほどにパイの実が入っている事がありました。そっと蓋を1回閉じました。完食しましたが(笑)
この話を母の前ですると、母は良く笑っていました。
僕が高校3年生位から母(51歳)は市が身体障がいの有る方に発行するタクシー券で移動するようになりました。高校3年生の時の三者面談も足が悪いのにタクシーで来てくれました。通常は親が教室まで上がってこないといけないんですが、学校の玄関まで先生が来てくれて面談をしたのを覚えています。
どんなに身体が悪くなっても、歩けなくなっても、学校の行事には足を運んでくれる母は僕の自慢の母でした。