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おじさんと私〜第4話〜

「初舞台と冷たいおじさん」

九月上旬のよく晴れた日、私は一人新宿に降り立った。
そう、この日はいつのまにか決定していた初舞台。私は緊張していた。

第一子を出産してから早3年。元々出不精ということもあり、休日に夫に子どもを預けて1人で都内へ繰り出すのは初めてだ。
私が家を出る時下の子は泣きじゃくり、上の子は「お母さんはどこへ何しに行くの?大切なお約束?」と寂しそうに夫に聞き、夫は「…お父さんにはうまく説明できないんだ、ごめんね。」と答えていた。

出産後初となる都内への1人外出がお笑いライブに出演する為だなんて、人生は何が起こるか分からない。

あるライブハウスの前で、色とりどりの髪型をした個性的な若者達が列をなしている。
その列の先頭に、本人は無自覚なようだがいささか破廉恥な格好をした大きな女(男)がまっすぐに前を見据えて立っている。
そう、おじさんその人だ。

よくそんな格好でそんなにまっすぐに前を見ることができるな、そうか、この列のこの人の隣に私も並ぶのか、などと思いながら、行きしな購入したレッドブルを飲み干してにこやかにおじさんに声をかけた。
私    「おはようございます!」
おじさん 「おはよ~」
私    「いやー、なかなか緊張してます」
おじさん 「大丈夫よぉ」

おじさんは完全にスイッチが入っていて、可愛らしく、頼もしくも感じた。

他愛のない会話は続く。

私   「もしネタが飛んじゃったら、コントの娘役の延長で“どうしようパパ、ネタが飛んじゃったわ!”とか言っちゃっても良いでしょうか?黙っちゃうより何とか繋げた方がいいですよね?流れが止まらないようにちょっとだけ話しを繋いでもいいですか?」
おじさん 「あ、そういうのはダメ、絶対。絶対ダメ。」
私    「あ、ダメですかー…。あー…。」

予想外の返事に会話が途切れる。

おじさん 「そういうのは大御所しかやっちゃダメだから。やめてね。自分めちゃくちゃ恥かくよ。」

こういっちゃなんだがおじさんとコンビを組んだ時点で既に人生最大級の恥はかき済みである。

「…あー…。じゃあネタ飛んじゃった時はどうしたらいいですかね?緊張してるんですけどね…。」
「自己責任だから。自分で思い出すまでだよ。」
「…あー…。そういうときって誰か助けてくれたりは…。」
「誰が?漫才中に誰が助けるの?何で助けるの?」

コンビだからである。

おじさん、何だってアンタそんなに冷たいのか。

3年前からピン芸人をやっているおじさんの胸を借りるつもりでいたが、決して失敗は許されないということだけを初舞台直前におじさんに教えて頂いた私は、震える足で舞台に飛び出した。

私    「どーもー!きくばやしです!」
おじさん 「よろしくねー!」

よし、イケる!

私    「私、小林直子と」
おじさん 「…に、き、に、き、西野カナさんリスペクト芸人菊池カナです!」

自己紹介で「西野」と「菊地」が混ざりニキニキ言っているおじさんに度肝を抜かれた。

しかし私は何とか冷静を保ちセリフを続けた。おじさんも続いている。
よし!我々は立て直したぞ!と思った瞬間、またもや耳を疑う事件が勃発した。

おじさん 「でもカナちゃ、直ち、カナ、直ちゃん!カナにもねぇ…」

何が何だか…。
このあと「子どもが2人いるんだよ」と続く予定なのだが、もうそこからは何も耳には入ってこなかった。
客席で心配そうに我々を見つめる女学生と目が合い、私は完全に頭が真っ白になった。
セリフが出てこない。
「えーとねぇ…カナちゃん、ほら…ねぇ。」
焦った私は何とか助けが欲しく、すがるような目でおじさんを見上げた。
するとどうだろう。
おじさんは氷のような目で私を見ているではないか。

嘘だ。
自己紹介の時点でニキニキ言っていた人が、こんな目で私を見るはずがない。
お互い様だね、という励ましの視線はあったとしても、こんな冷たい視線を投げかけることだけはあってはならない!
そう思いもう一度おじさんを見上げたところ、静止画かと錯覚するほどに先ほどと同じ目をしたおじさんが立っていた。
何だったら怒りさえも見て取れる。

四面楚歌状態に陥った人間は強い。
パーーン!とセリフが湧き上がり、その後は事なきを得た。

終わった後、おじさんは声をかけてくれた。

「お疲れ様!初舞台ってこんな感じだから。まぁ、気にしない気にしない!楽しく次に行こう!気にしちゃダメだよ!」

ニキニキおじさんは続けた。

「そして直ちゃん。結果はどうあれ、あなたは無事に初舞台を終えました。舞台に立ったなら、今日からあなたは芸人です。芸人と名乗る資格があります。…おめでとう!!」

右手を差し出している。

ありがとう、おじさん…。優しいおじさん…!
怒っていると思っていたおじさんが優しかったのでつい感謝をしてしまい、固い握手を交わしてしまった。
挙げ句の果てには、メイクを落としたものの口紅だけほんのり残る私服姿のおじさんと、別れ際の新宿駅でハイタッチまでしてしまったではないか。

無事に初舞台を終えた安堵感は、人間の判断能力を著しく低下させる。

そんな自分にいい加減に嫌気がさし、今もなおあふれ出てくる行き場のない悔しさをここにぶつけている次第だ。

ほっとしたのもつかの間、きくばやしに次なる試練が待ち受けていた。
次回「ライトに照らされながら盛大に怒られるおじさんと私」に続く。

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