§6 請求権問題とは何か
1. 財産・請求権問題とは何か
協定によって解決されたという財産・請求権問題とは何か、少し詳しく見てみましょう。大韓民国政府が1965年3月に刊行した『韓日会談白書』は、請求権とは何かについて次のように述べます。
大韓民国政府, "한일회답백서"(1965年3月20日)39頁
サンフランシスコ平和条約の第14条などに規定されたクレイム(claim)は「請求権」と訳されていますが、次のように、国際法学者の小寺彰は「個人が国家に直接請求する権利はない」としています。
つまり、国際法上の請求権は、国内法上の実体的な請求権に転化させることに国家間で合意しない限り、国民の損害を相手国に請求できるのは国家だけだとしています。この前提では、日韓会談で国民個人の請求権が議論される場合も、国家が国家に対して持っている請求権について議論していることになります。
『韓日会談白書』が「各種の(主として民事上の)請求権」とするものは、第一次会談で8項目の「韓国の対日請求要綱案」として、1952年2月21日に提示されます。その後、内容が修正され、項目別に討議がされたのは 1960年の第5次会談以降です。そして、第6項が、韓国国民個人が日本政府・国民に対して権利が行使できることの原則を要求するとの内容に、修正されています。最終的な8項目の対日請求要綱の概要は次のようなものです。
2. 請求権問題に含まれない賠償請求
韓国の対日請求権の基礎は、次のようなサンフランシスコ平和条約の規定に求められます。
前掲の『韓日会談白書』は、請求権の性格について次のように述べます。
大韓民国政府, "한일회답백서"(1965年3月20日)40-41頁
つまり、サンフランシスコ平和条約の調印当事国でない韓国は、サンフランシスコ平和条約第14条の「損害および苦痛」などに対する賠償を、対日請求権問題に含めることができなかったのです。
もっとも、戦争ではなく、"奴隷状態"*、言い換えれば、不法な植民地支配に起因する賠償請求問題は議題になりえたと思われます。当初は、実際に植民地支配に起因する賠償請求も検討されましたが、それは日本の朝鮮併合の違法・合法の議論に繋がるので、韓国側は意図的に日韓会談に賠償請求問題は含まないことにしたと考えられます。
次に示す文書は、韓国駐日代表部公使・溶植の本国外務部長官宛の、1953年10月21日「韓日会談の第2次財産及び請求権分科会に関する報告の件(文書番号: 韓日代 第5599号)という文書です。日本の在韓資産に対する請求権と韓国の請求権を相殺しようとすることに反対する韓国側の発言に次のような箇所があります。
サンフランシスコ平和条約第4条を基礎とした日韓会談での請求権問題には、条約調印当事国でない韓国が同条約第14条規定の「損害および苦痛」などに対する賠償請求を含めることができないという前提があり、また、植民地支配下における賠償請求的なものは会談の進捗のために意図的に含まず、民事的な清算関係に問題を限定したということになるでしょう。
話しを少し遡ると、日本敗戦後、韓国では対日賠償要求調査が行われ、1949年に『対日賠償要求調書』全二巻がまとめられました。
そこでは、必ずしも違法行為を原因としない補償にあたるのものも含めて「賠償要求」とされていました(「韓国の対日賠償要求」50-68頁)。また、日本政府に対する賠償請求だけでなく「日本人に対する韓国人の賠償請求」も含まれていました(「韓国の対日賠償要求」58頁, 54画像目)。
1952年の第1次会談で韓国「韓日間財産および請求権協定要綱」を提出しましたが、1952年の資料では、「8項目」の第5項目の「補償」の部分は「慰藉料」になっています。
朝鮮の奴隷状態、あるいは不法な植民地支配を前提とし、その下で受けた「太平洋戦争中の」徴用などによる朝鮮人の戦争被害に対する「慰藉料」とされていた語が、植民地支配の違法を基礎としない「補償」という語に、その後、置き換えられたと考えられます。
韓国では、1961年5月16日に朴正煕がクーデターを起こして政権を掌握しました。1961年11月の池田隼人・朴正煕会談の結果、国家間の賠償的性格の請求権は含まないこと、「請求権については法的根拠があるものだけを支払うことに一致」、これは個人的請求権で「…戦時徴用者の未払い賃金などで、その徴用者の所遇は大体日本人並みに扱うことになった」(毎日新聞夕刊1961年11月14日)と報道されています。
3. 「8項目の対日請求要綱」はどうなったか
日韓請求権協定の「合意議事録(1)」第2条(g)には次の次のように書かれています。
(1) 日韓協定で「いかなる主張もなしえない」というときは、国が主張をなしえないという意味であって、外交保護権の放棄であることは既に述べました。(§2)
つまり、8項目の「韓国の対日請求要綱」の範囲に属する財産・請求権について、協定署名後、韓国政府は日本政府に対して「いかなる主張もなしえない」ということになります。
しかし、「韓国の対日請求要綱」の8項目の各項目の請求を日本国が認めたというのではありません。
「8項目」が協定に「含まれる」と「合意議事録(1)」第2条(g)にあるので、例えば第5項目の被徴用者への補償が協定に含まれているかのような意見があります。しかし、「合意議事録」では、韓国が国として日本国に対して被徴用者の補償をせよとの主張は、協定によってもはやできないとされているだけであって、協定によって被徴用者へなどへの補償が実現されたとは一切述べてはいません。
(2) 日韓会談の中で、韓国側委員が被徴用者への補償についても要求し、それに対して日本側が死亡者・負傷者に対して補償の意思があったことなどをあげ、被徴用者への補償が協定に含まれていると主張されることがあります。
確かに、日本の外務省は、植民地支配が合法との前提で日本の法令に従って韓国人の個人請求権に一つ一つ答えてゆこうという「債務履行」の方向性でした。一方、大蔵省は韓国側の請求項目を一つずつ否定するかたちで交渉すべきであると主張しました。そして、日韓の交渉が進展しない中で、1961年に請求権議論を棚上げにした「経済協力方式」が日本側で浮上しました。
その直後に韓国で、朴正煕がクーデターで政権を掌握し日韓会談は妥協へと進むことになったのでした(吉澤文寿『日韓会談1965 ―戦後日韓関係の原点を検証するー』(高文研、2015年)102-106頁)。
第 6次会談では、1962年10月20日と11月12日に太平正芳外相と金鍾泌韓国中央情報部長の会談が東京で行われました。その結果、いわゆる「大平・金メモ」によって、経済協力として無償3億ドル、長期低利借款2億ドル、民間信用供与1億ドル以上という合意がなされ、その後、当時は外遊中だった池田勇人首相の同意を得て「経済協力方式」によって国家間の請求権問題が解決されることになったのです。
条文の解釈に当たって、最終的な条文の決定に関してどのような議論や合意があったかということは重要と考えられます。しかし、長い年月をかけた日韓会談での輻輳した委員の議論の一部、とりわけ「経済協力方式」に転換する前の議論の一部をとりあげて、日韓協定の条文に直接解釈を施そうとするのは適切でないといえます。ただし、会談の中では明示的に含まないとされ、1961年11月の池田・朴会談で請求権に含まれないと確認された賠償請求は協定に含まれないと考えるべきでしょう。
次に、協定の締結後、韓国ではどのような補償が行われたのか、民間請求権補償を中心に見てみましょう。
(次節へ続く)