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§4 サンフランシスコ平和条約の枠組み

 日韓協定においては、国内法的な私人(個人)の請求権まで、条約で消滅させるわけではないと先に述べました。
 これに対し、サンフランシスコ平和条約が規定する請求権の放棄は、請求権を実体的に消滅させることを意味しないが、請求権に基づく民事裁判上の権利行使をできなくするという、2007年4月27日最高裁判決の「サンフランシスコ平和条約の枠組み」論が主張されることがあります。
 この最高裁の「枠組み」の原形は、米国での一連の日本企業による第二次世界大戦中の奴隷・強制労働に対する賠償請求訴訟にあると考えられるので、まずは、米国裁判所の判断からみたいと思います。
 米国裁判所の説明が長くなりますので、先を急ぐ読者は「2. 日本の裁判所の判断」からお読み下さい。

1. 米国裁判所の判断

 1999年7月に米国カリフォルニア州で、いわゆるヘイデン法*(カリフォルニア州戦時強制労働補償請求時効延長法)が州法として成立、カリフォルニア州民事訴訟法第354.6条 California Code of Civil Procedure section 354.6 )に追加されました。この法律は、ドイツのユダヤ人強制労働と、第二次大戦の期間(1929 ~1945年)にドイツ・日本・イタリアなどの企業で奴隷・強制労働に従事させられた民間人・捕虜、その相続人が州上位裁判所に補償請求訴訟が提起できること、2010年12月31日までは消滅時効の規定を適用しないことなどを定めたものです。
 米国国外で行われた外国企業による外国人への不法行為に対して、現在は在米企業とはいえ、米国内で賠償請求訴訟がなぜ提起できるのか不思議に思われるかもしれません。それは、1789年に施行された外国人不法行為請求権法( Alien Tort Claims Act  =ATCA)があるからです。同法によって、国際法または米国が締結した条約に違反して行われた不法行為に対しては、外国人が民事訴訟を米国連邦裁判所の地方裁判所に提起できるのです。
 ヘイデン法に基づいて、1999年から2000年にかけて多くの損害賠償請求訴訟が提起されることになりました。それらの訴訟の中で重要と思われる、ウォーカー判事とリヒトマン判事が担当し控訴審裁判所で判決が逆転した訴訟について検討してみます。
 ただし、これらの訴訟の争点となったのは、条約の国際法上の解釈よりも、むしろ、州法であるカリフォルニア州民事訴訟法第354.6条が、連邦政府の独占的外交権限専占に抵触するかどうかという憲法上の問題であったことに注意が必要です。
 註 *  LEGISLATIVE COUNSEL'S DIGEST( SB 1245, Hayden. Compensation: World War II slave and forced labor.)

(1) 連邦政府の独占的外交権限と専占

 まず、連邦政府の「独占的外交権限」と「専占」について簡単に述べます。
連邦政府の独占的外交権限
 米国連邦憲法に明示されてはいませんが、外交上の権限は、連邦政府に留保されているという解釈を連邦最高裁判所はとっています。
専占(preemption)
 連邦法が州法に優先するという連邦最高裁判所判決が採用した法理で、州は連邦法に抵触するような法律を制定することができないとされます。
 ただし、これらの適用については議論が多く、ここで取り上げる訴訟の場合も裁判官の間に見解の対立がありす。

(2) ウォーカー2000年9月21日"命令"

 カリフォルニア州民事訴訟法第354.6条に基づいて提起された一連の訴訟の多くを、サンフランシスコ連邦地方裁判所のヴォーン・R・ウォーカー( Vaughn Richard Walker )判事が担当しました。
 三井物産・三菱商事・日本車輌製造・新日鉄などの企業に対して起こされた第二次世界大戦中の日本企業による連合国捕虜の強制労働に対する12件の損害賠償請求訴訟において、2000年9月21日にウォーカーは次のような"命令(order)"を出して原告の請求を却下しました。これは、サンフランシスコ平和条約第14条(b)項の解釈について、米国裁判所の判断を示す"命令"になりました。
 まず、サンフランシスコ平和条約第14条(b)項を再掲します。

第十四条
 (b)この条約に別段の定がある場合を除き、連合国は、連合国のすべての賠償請求権、戦争の遂行中に日本国及びその国民がとつた行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権並びに占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄する。


 次に、ウォーカー判事の"命令"の重要な部分を引用します。引用箇所の最初の段落は、同条約第14条(b)項の条文には捕虜について触れらていないので、捕虜の賠償請求は放棄の対象ではなかったという原告の主張に対するものです。

文面上、条約は「すべての」賠償、ならびに「戦争の遂行中に日本国およびその国民がとった行動から生じた」連合国「国民」の「すべての」「他の請求権」を放棄するこの放棄の表現はきわめて広く、かつ条約の他の条文に言及する冒頭の文節を除いて、条件的文言または制限を含んでいない
〔中略〕
日本国との平和条約は、これらの訴訟の原告が主張したような将来の請求権を封じたことで、原告の完全な補償を将来の平和と交換した。歴史はこの取引が賢明であったことを証明した。そして、原告の苦難に対する完全な補償は、純粋に経済的な意味では、これらの元捕虜およびその他の無数の戦争生存者に与えられなかったけれども、彼等自身とその子孫が自由な社会とより平和な世界に生きる計り知れない賜物がその債務を返済している。

山手治之「第二次大戦時の強制労働に対する米国における対日企業訴訟について」『京都学園法学』(2000年, 第2・3号, 45 (115)~116(186)頁)77(147), 84 (154)頁
原文
On its face, the treaty waives "all" reparations and "other claims" of the "nationals" of Allied powers "arising out of any actions taken by Japan and its nationals during the course of the prosecution of the war." The language of this waiver is strikingly broad, and contains no conditional language or limitations, save for the opening clause referring to the provisions of the treaty.
[...]
The Treaty of Peace with Japan, insofar as it barred future claims such as those asserted by plaintiffs in these actions, exchanged full compensation of plaintiffs for a future peace. History has vindicated the wisdom of that bargain. And while full compensation for plaintiffs' hardships, in the purely economic sense, has been denied these former prisoners and countless other survivors of the war, the immeasurable bounty of life for themselves and their posterity in a free society and in a more peaceful world services the debt.

In Re World War II Era Japanese Forced Labor Litigation, 114 F. Supp. 2d 939 (N.D. Cal. 2000), U.S. District Court for the Northern District of California

 山手治之(国際法)は、この"命令"を次のように要約しています。

この判決(命令)の要点は、連合国が日本国との平和条約第一四条(b)項によって連合国国民が戦争中の日本国国民の行為に対して有し得るすべての請求権を放棄していることを理由に、原告の訴えを却下した(または訴答*に基づく判決を下した)ことである。

山手治之「第二次大戦時の強制労働に対する米国における対日企業訴訟について」『京都学園法学』(2000年, 第2・3号, 45 (115)~116(186)頁)85 (155)頁

註*  訴答(pleading)とは、米国の裁判で事実審理に先立って、原告に救済を受ける権利があるかなどの争点を明確にするための段階のことで、本件は事実審理の前の段階で却下されたということになります。

 つまり、この"命令"の主要部分は、サンフランシスコ平和条約第14条(b)項によって、戦争中の日本国国民の行為に対して持つ連合国国民個人の全ての請求権が放棄され、将来、連合国国民によって再び請求権が主張されることを封じ、被害者が本来は受けるべきであった完全な補償を将来の平和と交換した、ということになるでしょう。

(3) ウォーカー2001年9月17日"命令"

 新日鉄・三井物産・三菱商事・鹿島建設・石川島播磨重工業などに対して起こされた日本企業による韓国人と中国人の強制労働に対する7件の賠償請求訴訟訴訟について、2001年9月17日"命令"で、ウォーカー判事はカリフォルニア州民事訴訟法第354.6節による韓国人と中国人への請求権付与は連邦政府の排他的外交問題権限を州法が侵害する違憲の立法で無効とし、出訴期限(消滅時効)によって原告の請求を却下しました。
 ただし、朝鮮と中国はサンフランシスコ平和条約の署名国ではないので、同条約第14条(b)項の請求権放棄条項に拘束されないとしました。この点については、2004年の上級裁判所の判断との関連で説明が必要ですので後述することにします。
 この訴訟では、在米日本大使館が「意見書」を裁判所に提出し、日本と関係国の関係に影響をこれらの問題は「米国内の裁判所で裁判されるべきではない」としました*

 註* 山手治之「第二次大戦時の強制労働に対する米国における対日企業訴訟について(続編)(二)」『京都学園法学』(2001年, 第2・3号, 23 (235)~62(274)頁)47 (259)頁
  "命令"の翻訳はこの文献に記載されています。
 原文は下記のリンク先で入手できます。
In Re: World War II Era Japanese Forced Labor, 164 F. Supp. 2d 1160 (N.D. Cal. 2001)  (N.D. Cal. 2001), U.S. District Court for the Northern District of California

 なお、この"命令"では、日本企業の行った行為を、次のように「強制労働行為」であり、国際法に違反すると認定している点が注目されます。

奴隷制度は jus cogens 〔強行規範〕の違反を構成するという Matta Ballesteros 事件の第九巡回裁判所のコメント(上述)を考慮して、本裁判所は強制労働は国際法に違反するという Iwanowa 事件の結論に同意したいと思う。実際、第二次世界大戦中の被告の強制労働行為が、伝統的国際法に違反したことは疑う余地がないように思われる

山手治之「第二次大戦時の強制労働に対する米国における対日企業訴訟について(続編)(二)」『京都学園法学』(2001年, 第2・3号, 23 (235)~62(274)頁)51 (263)頁

 以上のことから、ウォーカー判事の2001年9月17日"命令"の要点は、
朝鮮と中国はサンフランシスコ平和条約の非署名国なので、韓国人と中国人は同条約第14条(b)項の請求権放棄条項に拘束されない
州法であるカリフォルニア州民事訴訟法第354.6条が出訴期限を延長して韓国人と中国人に請求権を付与することは、連邦政府の排他的外交問題権限を侵害する違憲の立法で無効、
 出訴期限(消滅時効)の経過により、被告企業の国際法違反の強制労働行為に対する請求権に基づく訴を原告は提起できない、
ということになります。

(4) カリフォルニア州最高裁2004年3月30日判決

 小野田セメント( 現・太平洋セメント )が第二次世界大戦中に、当時、日本の法政大学学生だった韓国系米国人・ジェウォン・ジョン( JaeWon Jeong=鄭,在源 )に行った強制労働への賠償請求訴訟が1999年に提起されました。これに対して、2001年9月14日にカリフオルニア州ロサンゼルス郡上位裁判所のピーター・D・リヒトマン( Peter D. Lichtman )判事は、カリフォルニア州民事訴訟法第354.6条に基づいて原告勝訴の判決を出しました。判決の要点は次のようなものです。(ただし、後述するように、この訴訟は最終的に被告の逆転勝訴となります。)

被告の四点の主張については,
(1)  平和条約第14条(b)項は,〔韓国人の〕Jeongが締結時締約国の国民でなかったから適用されない
(2) 日韓請求権協定は外国法であるが何がその正しい解釈か決定できず,したがって裁判所はカリフォルニア州法の適用を選択する
(3) 平和条約第4条例項は日韓両国で「特別取極」を締結することを定めており,連邦議会が非署名国およびその国民の請求権問題を平和条約に独占させる意思はなく,専占(preemption)は否定される
(4) Jeongに平和条約が適用されないから, ドイツのケースと違って米国が締結した条約で, 原告の請求権を扱ったものがなく,また米国政府も加わって和解に向けて関係者が努力してもおらず,裁判所がカリフォルニア州民事訴訟法第354.6節に従って判決を下しても連邦政府のいかなる正当な外交政策利益をも妨害しないから,政治的問題の理論は本件には適用されない,
とすべてこれを退けた。

山手治之「第二次大戦時の強制労働に対する米国における対日企業訴訟について(続編)(4) 」『京都学園法学』( 2003年第1号, 195(195) -260 (260)頁)196 (196)頁

 ところが、この訴訟が係属中の 2003年6月23日に、連邦最高裁判所が別件のガラメンディー事件American Insurance Association v. Garamendi, 539 U.S. 396 (2003) )で、1999年に制定されたホロコースト被害者保険救済法( California’s Holocaust Victim Insurance Relief Act  (HVIRA) )、すなわちカリフォルニア州民事訴訟法第354.5条 California Code of Civil Procedure section 354.5 )を違憲とする判決を出しました。
 ホロコースト被害者保険救済法は、ナチス政権主導下で保険証書が没収された被害者を救済するため、ヨーロッパで販売された1920年から1945年の間に有効だった保険証書の情報開示を、カリフォルニア州の保険業者の営業免許継続の条件とするという法律です。
 ガラメンディー事件の争点と裁判所の判断は次のようなものでした。

連邦最高裁での最大の争点は、
① 行政協定には州法を専占する効力があるか、
合衆国とドイツやフランスとの聞に締結された行政協定は、ホロコースト法を専占するのか、という二点であった。
最高裁は、行政協定の専占効力を肯定し、特に後者につき、ホロコースト法は、行政府の外交政策に対する干渉であり、それゆえ専占されると判示した。

古賀智久「連邦政府の外交権限と専占法理 : 日本企業に対する強制労働訴訟」『法政論叢』( 2005年, 42巻, 1号,  72-87頁) 77頁

 ジェウォン・ジョンの訴訟について、カリフォルニア州最高裁判所は、同州控訴裁判所判決を破棄差戻し、上記の連邦最高裁判所のガラメンディー判決に沿って審理するように命じました。
 その結果行われた差戻審の主な争点と裁判所の判断は、次のようなものでした。

本差戻審での主たる争点は、サンフランシスコ講和条約が〔カリフォルニア州民事訴訟法〕第三五四・六条を黙示的に専占したかどうかにあった。カリフォルニア州控訴裁判所は、以下の二点を根拠として、第三五四・六条がサンフランシスコ講和条約により専占されると判示した。
(一)一九五一年条約は、第三五四・六条の下では中国人及び韓国人の賠償請求権明示的には専占しないが、同条約は、日本と日本国民に対する請求権は外交的に解決されるべきである、という連邦政府の外交政策を具体化している
(二)第三五四・六条は、日本国民に対する請求訴訟を認めており、それゆえ、同条約に具体化されている連邦政策に抵触する。この結果、第三五四・六条は、サンフランシスコ講和条約によって専占される

古賀智久「連邦政府の外交権限と専占法理 : 日本企業に対する強制労働訴訟」『法政論叢』( 2005年, 42巻, 1号,  72-87頁) 80-81頁

 上記のように、カリフォルニア州控訴裁判所判決は2004年3月30日の判決で、韓国のようなサンフランシスコ平和条約の非署名国は日本との政府間交渉によって請求権問題を解決すべきという米国政府の決意を具体化したもので、原告に米国での訴訟を認めるカリフォルニア州民事訴訟法第354.6条はサンフランシスコ講和条約によって専占されるとして、原告請求を棄却しました。
 原告は、カリフォルニア州最高裁判所、次いで、連邦最高裁判所へ上告しましたが、2005年1月18日に原告敗訴の判決が確定しました。

(5) 米国での裁判のまとめ

 以上のことをまとめると、米国の裁判所の判断は、
サンフランシスコ平和条約第14条(b)項によって連合国国民の日本国民に対する請求権は放棄された(ウォーカー2000年9月21日)。
同条約によっては、非署名国の国民である韓国人と中国人の日本国と日本国民に対する請求権は放棄されない(ウォーカー2001年9月17日、リヒトマン2004年3月30日)。ただし、以下③、④の理由で、韓国人と中国人も米国において日本国民に対して請求権訴訟を提起することはできない
 同条約は、韓国人と中国人の日本と日本国民に対する請求権外交的に解決されるべきであるという連邦政府の外交政策を具体化している。そこで、韓国人と中国人に日本国民に対する請求権訴訟を認めるカリフォルニア州民事訴訟法第354.6条は連邦政府の政策に抵触する(ウオーカー2001年9月17日、カ州控訴裁2004年3月30日)。
カリフォルニア州民事訴訟法第354.6条はサンフランシスコ講和条約により黙示的に専占される(カ州控訴裁2004年3月30日)。

 そこで、
① 署名国国民の日本国民に対する請求権はサンフランシスコ平和条約によって放棄された
② 非署名国国民の日本国民に対する請求権はサンフランシスコ平和条約によっては放棄されないが、日本との間の外交交渉で請求権問題が解決されるべきだとの意思を米国政府は持っていたので、それに抵触する州法は無効で、米国では、非署名国国民が日本国民に対して請求権訴訟を提起することはできない
ということになりました。

(6) 問題点

対日請求権に関する上記の米国の裁判所の判断をみると、国際法の議論は少なく、連邦政府の独占的外交権限と専占という憲法上の判断が中心になっています。
 また、サンフランシスコ平和条約第14条(b)項については、「文面上( On its face )」日本と日本国民に対する連合国国民の(個人の請求権も含む)すべての請求権を放棄するとしました。シンプルで分かりやすい内容です。
 しかし、「文面上( On its face )」というのは、いわば条文の"字面(じずら)"ということです。1969年の条約法に関するウィーン条約第31条1項で「条約は、文脈によりかつその趣旨及び目的に照らして与えられる用語の通常の意味に従い、誠実に解釈するものとする」とし、文脈で解釈することとしています。また、同条約第3項では「文脈とともに、次のものを考慮する」として「 (c) 当事国の間の関係において適用される国際法の関連規則」をあげています。
 ここであげた米国裁判所の判断では、国際法上の個人の請求権の位置付け、また、第一次世界対戦では戦勝国の国民の請求権が認められたのにサンフランシスコ平和条約では戦勝国の国民の請求権までなぜ放棄されるのかといった議論はほとんどなされていません。
日本政府はサンフランシスコ平和条約によっては個人の請求権は残る、ただし、日本においては訴求できない、あるいは、裁判所が判断するとしてきました。米国裁判所の判断は、署名国国民の(個人の)請求権は同条約によって放棄されたとしていますので、日本政府とはやや解釈が異なります
③ 米国での裁判では、非署名国国民の韓国人と中国人については、サンフランシスコ平和条約によっては請求権は放棄されないが、日本とそれぞれの国の外交交渉に委ねるという連邦政府の意思があったので、米国では訴訟を提起出来ないということになりました。
これらのことを考えると、米国の裁判所の判断を、そのまま日本の訴訟に適用することは難しいと思われます。
 とりわけ、韓国の場合はサンフランシスコ平和条約の非署名国であるばかりでなく、日韓請求権協定では戦争によって生じた賠償に対する請求権の解決を目的とした協定ではありません
 一方、非署名国ですが連合国であった中華民国と中国(中華人民共和国)については、韓国と事情が異なります。
 1949年に成立した中華人民共和国は、ソ連、東欧諸国、インドなどによって承認されましたが、サンフランシスコ会議には招待されていません。それに対し、中華民国については、日本との間で1952年4月28日に日華平和条約(日本国と中華民国との間の平和条約)が締結され同条約第11条で、次のように規定しています。

この条約及びこれを補足する文書に別段の定がある場合を除く外、日本国と中華民国との間に戦争状態の存在の結果として生じた問題はサン・フランシスコ条約の相当規定に従つて解決するものとする。

 つまり、中華民国はサンフランシスコ平和条約の非署名国ですが、日華平和条約に定めがない場合は、サンフランシスコ平和条約の相当規定に従って解釈するとしています。ウォーカー2000年9月21日"命令"のように「文面」からは、サンフランシスコ平和条約と同じ趣旨で日本国民に対する中華民国国民の請求権も放棄されたということになります。条約締結当時、中国大陸は中華民国が実効支配をしていませんでしたが、日華平和条約は中華人民共和国が継承すると考えると*、中国の場合は、連合国でない韓国とは大きく異なっていると言えます。
 これらのことを考えると、日本大使館が意見書を提出した米国での対日請求権訴訟の結果が、連合国の捕虜・抑留者や中国人強制労働被害者の賠償請求訴訟での日本政府の主張へと繋がっていったということになるでしょう。

註*  日本では、中華人民共和国は中華民国の後継国として国際法上の権利及び義務を承継するとされます。
(2006年6月16日「衆議院議員鈴木宗男君提出中華民国と中華人民共和国の継承関係に関する質問に対する答弁書」)
 ただし、1949年10月1日に成立した中華人民共和国から見ると、中華民国は遅くとも1949年には消滅しているので、1949年10月以降に中華民国が締結した条約は継承しえないとも考えられます。

2. 日本の裁判所の判断

 2000年頃まで、戦後補償訴訟において日本政府は「国家無答責の法理」「戦争被害受忍論」あるいは消滅時効除斥期間の経過によって原告請求が棄却されるべきとしていました。とりわけ、日本人の戦争被害の請求権については、条約によっては個人の請求権は条約によって消滅しないという「外交保護権のみ放棄」論で、国は請求権放棄によって国民に損害を与えていないと説明していました。
 しかし、1999年に米国カリフォルニア州でヘイデン法が成立し消滅時効が延長され、戦争中の強制労働に対して日本企業が提訴されました。そこで、日本政府は米国の訴訟では被告・日本企業のために日本大使館の意見書を提出ました。
 一方、日本でも強制労働の苛酷さなどを理由に消滅時効や除斥が否定される判決が出るようになりました。そこで、米国のウォーカー判決をきっかけに、サンフランシスコ平和条約によって個人の請求権も含めた全ての請求権が放棄されたという主張に日本政府が軌道修正したと考えられます。

(1) 軌道修正――オランダ人元捕虜・民間抑留者訴訟

 1994年に提起されたオランダ人元捕虜・民間抑留者訴訟の控訴審において、2001年2月27日付準備書面で国(日本政府)は予備的に次のような主張を追加しました。

[サンフランシスコ平和会議にける吉田首相とオランダ代表とのやり取りを述べた後]このような条約締結当時の経過からすれば,平和条約14条にいう『請求権の放棄』とは,日本国及び日本国民が連合国国民による国内法上の権利に基づく請求に応ずる法律上の義務が消滅したものとしてこれを拒絶することができる旨が定められたものと解すべきである。(18頁)

山手治之『中国人「慰安婦」二次訴訟東京高裁判決について――個人請求権の放棄を中心に――』『立命館法學』( 2005年(2・3) (通号 300・301), 1322~1413頁)658 (1352)頁

 この新たな日本政府の主張について、山手治之(国際法)は次のようにみています。

国としてはおそらく,従来の「外交保護権のみ放棄論」との論理的整合性を保ちながら米国裁判所に提出した日本政府の見解と矛盾しない理論,しかもそれはウォーカー判決と同様の効果を有し,係属中の戦後補償訴訟で出始めた敗訴に対する歯止めになることができるような理論を模索した結果,上述の理論構成に達し,すでに第二審の最終段階にきてはいるが最も関連の深いオランダ人元捕虜・民間抑留者訴訟を選んで,その予備的主張として提出したものであろう。

前掲、山手治之、659 (1353)頁

 東京高裁2001年10月11日判決は、ハーグ陸戦条約第3条は個人の直接請求権を認めたものではないとする他、この予備的主張を容認して、サンフランシスコ平和条約によって「連合国国民の個人としての請求権も,連合国によって『放棄』され,これによって連合国国民の実体的請求権も消滅した」としました。
 ただし、次に述べる西松建設強制労働訴訟の一審では、国がこの主張をしていないので、当時は国としての統一見解にまでは、なっていなかったと思われます。

(2) 連合国国民の場合――西松建設強制労働訴訟

  西松建設強制労働訴訟は、第二次世界大戦中の1944年に中国華北より連行されて広島県安野発電所建設工事で強制労働をさせられた被害者・遺族の中国人5人が、西松建設に対して賠償を求めた訴訟です。
広島高等裁判所2004年7月9日判決
 一審は原告が敗訴しましたが、広島高等裁判所は控訴審(二審)において「外国人の加害行為によって被害を受けた国民が個人として加害者に対して損害賠償を求めることは,当該国民固有の権利」「その属する国家が他の国家との間で締結した条約をもって,被害者に加害者に対する損害賠償請求権を放棄させることは原則としてできない」とし、また、「日中共同声明第5項に,明記されていない中国国民の加害者に対する損害(被害)賠償請求権の放棄までも当然に含まれているものと解することは困難」などとして原告(控訴人)の請求を認める判決を出しました。(日中共同声明第5項は「日本国に対する戦争賠償の請求を放棄」としています。)

② 最高裁2007年4月27日判決
 これに対し上告審の2007年4月27日最高裁判決は、「サンフランシスコ平和条約の枠組み」というものがあり、下に引用するように、平和条約締結後に戦争中に生じた種々の請求権を個別的な民事裁判上の権利行使による解決に委ねれば混乱を生じるとし、原告勝訴の広島高等裁判所の判決を破棄しました。

(2) このように,サンフランシスコ平和条約は個人の請求権を含め,戦争の遂行中に生じたすべての請求権を相互に放棄することを前提として,日本国は連合国に対する戦争賠償の義務を認めて連合国の管轄下にある在外資産の処分を連合国にゆだね,役務賠償を含めて具体的な戦争賠償の取決めは各連合国との間で個別に行うという日本国の戦後処理の枠組みを定めるものであった。この枠組みは,連合国48か国との間で締結されこれによって日本国が独立を回復したというサンフランシスコ平和条約の重要性にかんがみ,日本国がサンフランシスコ平和条約の当事国以外の国や地域との間で平和条約等を締結して戦後処理をするに当たってもその枠組みとなるべきものであった(以下,この枠組みを「サンフランシスコ平和条約の枠組み」という。)。サンフランシスコ平和条約の枠組みは,日本国と連合国48か国との間の戦争状態を最終的に終了させ,将来に向けて揺るぎない友好関係を築くという平和条約の目的を達成するために定められたものであり,この枠組みが定められたのは,平和条約を締結しておきながら戦争の遂行中に生じた種々の請求権に関する問題を,事後的個別的な民事裁判上の権利行使をもって解決するという処理にゆだねたならば,将来,どちらの国家又は国民に対しても,平和条約締結時には予測困難な過大な負担を負わせ,混乱を生じさせることとなるおそれがあり,平和条約の目的達成の妨げとなるとの考えによるものと解される。
(3) そして,サンフランシスコ平和条約の枠組みにおける請求権放棄の趣旨が,上記のように請求権の問題を事後的個別的な民事裁判上の権利行使による解決にゆだねるのを避けるという点にあることにかんがみると,ここでいう請求権の「放棄」とは,請求権を実体的に消滅させることまでを意味するものではなく,当該請求権に基づいて裁判上訴求する権能を失わせるにとどまるものと解するのが相当である。

2007年4月27日最高裁判決、11-12頁

 このように、請求権の「放棄」とは「請求権を実体的に消滅させることまでを意味するものではなく、当該請求権に基づいて裁判上訴求する権能を失わせるにとどまるものと解するのが相当」とし、条約によっては請求権が実体的に消滅されないが「裁判上訴求する権能を失わせる」としています。
 東京高裁2001年10月11日判決が、米国裁判所のウォーカー"命令"同様に、連合国国民の「実体的請求権も消滅した」とするのに対し、最高裁2007年4月27日判決は「請求権を実体的に消滅させることを意味しない」としている点が異なります。
 同最高裁判決は、続いて吉田茂のオランダ王国代表スティッカー外務大臣に対する書簡に言及していますが、これは§3で述べたように、オランダが提起した私人の請求権存続に対し「日本国政府が自発的に処理することを欲するかもしれない連合国民のある種の私的請求権」としている部分です。
 この最高裁判決の「サンフランシスコ平和条約の枠組み」に基づく解釈は、国民個人の請求権を「消滅せしめずともこの請求権を日本において日本政府または個人にたいして追及するをえしめない」という*サンフランシスコ平和条約締結当時の日本側の解釈と同趣旨と言ってよいでしょう。

註*  §3( 外交保護権のみ放棄論と請求権放棄)で引用した 外務省編『日本外交文書:平和条約の締結に関する調書』第4冊、「II 桑港編」165頁

(3) 韓国国民の場合――三菱名古屋女子挺身隊訴訟

 第二次世界大戦中に朝鮮半島から女子勤労挺身隊の隊員として来日したところ、当時の三菱重工業株式会社・名古屋航空機製作所道徳工場で強制労働をさせられたなどとして、1999年に韓国人の元労働者・遺族が三菱重工業対して賠償と謝罪広告の掲載を請求した訴訟です。
 この訴訟は、連合国側国民による「オランダ人元捕虜・民間抑留者訴訟」や「西松建設強制労働訴訟」とは異なり、サンフランシスコ平和条約の非締結国の韓国の国民によるもので、日韓請求権協定の解釈が争点となりました。
 国はそれまではしていなかった「日韓請求権によって原告は裁判で権利行使ができなくなった」という主張をしました。これは、それまでの国内法に基づく請求棄却の主張から、日韓請求権協定という条約の直接適用によって原告の出訴権が阻害されるとする権利行使阻害説に転じたことを意味します。
 名古屋地裁は国の主張を認めて、名古屋地裁2005年2月24日判決で原告請求を棄却しました。
 この訴訟と同じ時期に、前述した中国人強制労働被害者・遺族が原告の西松建設強制労働事件の上記上告審が争われていたので、日本政府は、請求権放棄は請求権そのものを放棄したのではなく、国内法上の権利に基づく請求に応ずる法律上の義務が消滅したことを意味するとの解釈に統一したと考えられます。  
 前述のように、2007年4月27日最高裁判決は「サンフランシスコ平和条約の枠組み」として、平和条約締結後に戦争中に生じた種々の請求権を個別的な民事裁判上の権利行使による解決に委ねれば混乱を生じるとし、原告勝訴の広島高裁判決を破棄しました。
 三菱名古屋女子挺身隊訴訟の原告は高裁に控訴しました。しかし、名古屋高裁2007年5月31日判決は、三菱名古屋女子挺身隊訴訟の原告が欺罔・脅迫によって志願させられて苛酷な強制労働に従事した事実などは認定しましたが、次のように、原告は日韓請求権協定によって裁判で権利行使ができなくなったとして控訴を棄却、2008年11月1日に上告が棄却され判決が確定しました。

本件協定〔日韓請求権協定〕2条2に該当するものを除き,「財産,権利文は利益」に当たらない本件協定2条の「請求権」については,本件協定2条3において一律に「いかなる主張もすることができないものとする」とされ,同協定2条1において,「請求権に関する問題が完全かつ最終的に解決されたこと」こと〔ママ〕により,韓国及びその国民が,どのような根拠に基づいて日本国及びその国民に請求しようとも, 日本国及びその国民はこれに応じる法的義務がなくなったという意味であることは明らかであって,控訴人らの上記主張はその前提において採用できない。

名古屋高裁2007年5月31日判決、38頁

 従来、日本の裁判所は「財産,権利,利益」に当たらない請求権も日本の措置法によって請求できなくなったとしていました(非限定説→ §1 (どのように"解決された"のかー外交保護権放棄と国内措置)参照ください)。
 この高裁判決では、条約によって「日本国及びその国民はこれに応じる法的義務がなくなった」としているので、従来の日本の日韓請求権協定解釈に大きな転換があったということになるでしょう。

 三菱名古屋女子挺身隊訴訟の韓国国民と、西松建設強制労働判決での中華人民共和国の国民の場合とでは、サンフランシスコ平和条約との関わりが異なります。西松建設強制労働訴訟判決は、締結国でない国と日本との二国間協定にもサンフランシスコ条約は当てはまるとして具体的に国名をあげていますが、日韓協定や韓国には触れていません
 請求権条約によって請求権放棄で賠償請求を含請求権に基づく民事裁判上の権利行使ができないという論は「サンフランシスコ平和条約の枠組み」論と呼ばれ日韓条約にも適用されると主張されることがあります。しかし、サンフランシスコ平和条約の締結国でない韓国との、しかも戦争の事後処理でない日韓請求権協定に「サンフランシスコ平和条約の枠組み」があるとはいえません。実際、三菱名古屋女子挺身隊訴訟判決の中でも「サンフランシスコ平和条約の枠組み」論そのものは使われていません。
 山手治之は、2000年に発表した論文で、次のように述べています。

日本国民に対して「外交保護権のみ放棄論」をいってきた以上、いまさら、韓国人から日本国民に対して日本国内法に基づく請求が提起された場合に、いや実はあれは個人の請求権も含んで放棄したものであったとはいえないではないか。こうして、日本国民の戦後補償の請求を認めないための理論は、いまや連合国国民や占領地・旧植民地国国民が、日本国内裁判所に日本国内法(あるいは国際法)に基づいて訴訟を提起する場合の法的根拠となっている。これらの原告たちの請求に対して、日本の裁判所は、平和条約または二国間条約によって原告の請求権もその本国によって放棄され消滅しているから訴えが成立しない、というわけにいかないのである。 

山手治之「弟二次大戦時の強制労働に対する米国における対日企業訴訟について」〔京都学園法学 2000年 第2・3号〕 

 つまり、2000頃まで、日本政府が「外交保護権のみ放棄」を法的根拠としていた以上、サンフランシスコ平和条約や二国間条約によって、請求権が本国によって放棄されて消滅されていると、いまさら言うわけにいかないと、国際法の研究者でさえ考えていたのでした。
 しかし、オランダ人元捕虜・民間抑留者訴訟の際に「法的根拠」が覆されたということになります。前述のように、山手はそのときの国の主張について、『従来の「外交保護権のみ放棄論」との論理的整合性を保ちながら,米国裁判所に提出した日本政府の見解と矛盾しない理論,しかもそれはウォーカー判決と同様の効果を有し,係属中の戦後補償訴訟で出始めた敗訴に対する歯止めになることができるような理論を模索した結果』と分析します。
 一方、三菱名古屋女子挺身隊訴訟では、「サンフランシスコ平和条約の枠組み」論そのものは使えなかったので、「理論を模索した結果」を日韓請求権協定に当てはめたものといえるのではないでしょうか。

追記:この記事を書いてから気付いたのですが、日本外務省のweb頁の「アジア 歴史問題Q&A」では、次のように、サンフランシスコ平和条約によって個人の請求権も放棄されたかのように書かれています。

問4 政府間における請求権の問題は解決済みでも、個人の請求権問題は未解決なのではないですか。
1 終戦後、我が国は、関係国との間で、賠償や財産、請求権の問題を一括して処理しましたが、その際、個人の請求権についても併せて処理しました。例えば、サンフランシスコ平和条約では、連合国国民及び日本国国民の相手国及びその国民に対する請求権はそれぞれ放棄されています
https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/
2021年5月20日閲覧

(4) 問題点

① 「文面」による解釈とウォーカー"命令"
 米国裁判所・ウォーカー"命令"は、サンフランシスコ平和条約第14条(b)項について、「文面上( on its face )」、つまり条文の"字面(じずら)"上、日本と日本国民に対する連合国国民の(個人の請求権も含む)すべての請求権を放棄するとしました。確かに「戦争の遂行中に日本国及びその国民がとつた行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権並びに占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄する」と明示的に戦争の遂行中に日本国と日本国民によって生じた国民個人の請求権の放棄に言及しています。 
 また、§3( 外交保護権のみ放棄論と請求権放棄)で述べたように、第二次世界大戦の被害が甚大であったため、サンフランシスコ平和条約では第一次世界大戦のときのような混合仲裁裁判所は設置せずに国家・国民間の請求権を放棄しようとしたとも考えられます。
② 日韓請求権協定の文言と解釈
 一方、名古屋高裁2007年5月31日判決は、日韓請求権協定第2条3で「いかなる主張もすることができないものとする」とし「請求権に関する問題が完全かつ最終的に解決された」(協定第2条1)ことから 「日本国及びその国民はこれに応じる法的義務がなくなった」としています。確かに、条約のこの部分だけ読むと、文面上は請求権に関する問題が完全かつ最終的に解決されたので、日本国及びその国民は法的これに応じる必要がなくなったとも読めますが、ここで、日韓請求権協定第2条をもう一度見てみましょう。

第二条
 両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第四条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。
 〔中略〕
 2の規定に従うことを条件として、一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益であつてこの協定の署名の日に他方の締約国の管轄の下にあるものに対する措置並びに一方の締約国及びその国民の他方の締約国及びその国民に対するすべての請求権であつて同日以前に生じた事由に基づくものに関しては、いかなる主張もすることができないものとする。

 つまり、
1. サンフランシスコ平和条約では、「戦争の遂行中に日本国及びその国民がとつた行動から生じた」請求権を「放棄する」と明示されているのに対し、
2. 日韓請求権協定では、「両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が……完全かつ最終的に解決された」「一方の締約国及びその国民の他方の締約国及びその国民に対するすべての請求権であつて同日以前に生じた事由に基づくものに関しては、いかなる主張もすることができない」と、
両者の表現は明らかに異なります。
 日韓請求権協定で「完全かつ最終的に解決された」のは「請求権に関する問題」であり、請求権が放棄されたとの文言はありません
 また、「他方の締約国及びその国民に対するすべての請求権」に関しては「完全かつ最終的に解決された」とされていますが、請求権が放棄されたとは述べていません。とすれば、条約の「完全かつ最終的に解決された」、あるいは「完全かつ最終的に解決された」という意味は自明ではないので、いかなる意味かを確定する必要が生じます。
 1969年の条約法に関するウィーン条約第31条1項で「条約は、文脈により ( in their context )かつその趣旨及び目的に照らして与えられる用語の通常の意味に従い、誠実に解釈するものとする」とし、条約は「文面( on its face )」ではなく「文脈 ( in their context )」で解釈することとしています。また、同条約第31条第4項では「用語は、当事国がこれに特別の意味を与えることを意図していたと認められる場合には、当該特別の意味を有する」とし、第32条では「解釈の補足的な手段」として「前条〔31条〕の規定の適用により得られた意味を確認するため又は次の場合における意味を決定するため、解釈の補足的な手段、特に条約の準備作業及び条約の締結の際の事情依拠することができる」として「 (a) 前条〔31条〕の規定による解釈によつては意味があいまい又は不明確である場合」をあげています。
 そして、日韓請求権協定の場合は、§2 (「主張することができない」の意味)で検討したように、「いかなる主張もすることができない」、あるいは「合意議事録(1)」2(h)の「主張しえない」という文言の意味は、国民の請求権に対する「外交保護権の放棄であって、個人が直接請求する権利まで消滅せしめているのではない」ということであり、また、日韓請求権協定交渉中に日本側委員が韓国側に「請求権を個人の債権等でない、外交法権的な政府請求権と解釈する」と伝えた事実があり、日本政府も2000年頃までは、外交保護権のみが放棄されたと説明していたのです。
 韓国人徴用工の日本企業に対する賠償請求訴訟の韓国大法院2012 年5 月24 日判決に関して、 山下朋子(国際法)は、次のように指摘します。

 第二に、大法院は「近代法の原則」に基づけば、条約に明示の請求権放棄条項がある場合には国籍国は個人請求権を消滅させることができるが、日韓請求権協定にはそのような文言がないため韓国国民のもつ個人請求権は消滅していないという。これは、1951 年の対日平和条約第14 条(b)項が明示的に国民の請求権放棄に言及しているのに対して、日韓請求権協定第2 条1 項が両国間における請求権に関する問題は「完全かつ最終的に解決された」という独自の表現を用いた点を重視した解釈といえる。
 以上のような判断理由に基づき、日韓で正反対の結論が下されてはいるが、日韓請求権協定第2 条1 項の解釈については両国間で司法判断が分かれた訳ではない。すなわち、日韓請求権協定第2 条にいう「完全かつ最終的に解決された」という独特の曖昧な文言は個人請求権を消滅させる趣旨ではないという理解で、両国の裁判所見解は一致している。近年、日本の裁判所でも日韓請求権協定の直接適用による「権利行使阻害説」を採用するものが出現したとはいえ、従来の判例や外務省は「外交的保護権のみ放棄説」に基づきつつ国内法を根拠として個人請求権が消滅するという立場をとってきた以上、国内法上の阻害要因がないとされた韓国国内での訴訟に異を唱えることは非常に難しいように思われる。 

 つまり、日韓請求権協定第2 条1 項の解釈に関しては、個人の請求権が実体的に消滅することを意味しないという点において、日韓両国の司法判断は分かれていません。そして、従来の日本の判例や日本外務省が「外交的保護権のみ放棄」説に基づきつつ国内法を根拠として個人請求権が消滅するという立場をとってきたのに、いまさら、韓国国内法上の権利行使の阻害要因がないとされた韓国司法の判決に異を唱えることは非常に難しいということになるでしょう。
 日韓請求権協定という条約の直接適用によって原告の出訴権が無くなったとの「権利行使阻害説」に2001年頃から日本政府の解釈が転じたのであれば、日本政府には条約の解釈変更の理由の説明責任があるといえるのではないでしょうか。

3. まとめ

(1) サンフランシスコ平和条約における請求権放棄とは、国民個人の請求権を含めて放棄することを意味するという解釈が、2001年までに米国司法でなされました。

(2) 日本政府は、従来の「外交保護権のみ放棄」との論理的整合性を保ちながら、米国のウォーカー判決と同様の効果を得られるように、条約によっては請求権が実体的に消滅されない裁判上訴求する権能を失わせるという主張に修正したと考えられます。

(3)
 2007年4月27日最高裁判決(西松建設強制労働訴訟)は、「サンフランシスコ平和条約の枠組み」があり、平和条約締結後に戦争中に生じた種々の請求権を個別的な民事裁判上の権利行使による解決に委ねれば混乱を生じるとしました。

(4) 韓国はサンフランシスコ平和条約の非締結国で、戦争賠償に伴う請求権問題を規定したものではなく、請求権の放棄も明記されていない日韓請求権協定に「サンフランシスコ平和条約の枠組み」をそのまま適用することはできません

(5) 名古屋高裁2007年5月31日判決(三菱名古屋女子挺身隊訴訟)は、国が権利行使阻害説に転じたことを受けて、日韓請求権協定第2条3項で「いかなる主張もすることができないものとする」とし「請求権に関する問題が完全かつ最終的に解決された」(協定第2条1項)ことから 「日本国及びその国民はこれに応じる法的義務がなくなった」としました。
 これは、「サンフランシスコ平和条約の枠組み」を日韓請求権協定に合わせて適用したものではないかと考えられます。

(6) §2 (「主張することができない」の意味)で検討したように、日韓請求権協定の「いかなる主張もすることができない」、あるいは「合意議事録(1)」2(h)の「主張しえない」という文言の意味は、国民の請求権に対する「外交保護権の放棄であって、個人が直接請求する権利まで消滅せしめているのではない」ということであり、また、日韓請求権協定交渉中に日本側委員が韓国側に「請求権を個人の債権等でない、外交法権的な政府請求権と解釈する」と伝えた事実があり、日本政府も2000年頃までは、外交保護権のみが放棄されたと説明していました。

(7) 日韓請求権協定第2 条1 項については、個人の請求権が実体的に消滅することを意味しないという解釈において、日韓両国の司法判断は分かれていません。その解釈の上で、従来、日本の判例や日本外務省は「外交的保護権のみ放棄」説に基づきつつ国内法を根拠として個人請求権が消滅するという立場をとってきました

(8) しかし、2001年頃から、日韓請求権協定という条約の直接適用によって原告の出訴権が無くなったとの「権利行使阻害説」に日本政府の解釈が転じたと考えられます。日本政府には条約の解釈変更の理由について説明責任があるといえるでしょう。

 次に、日韓協定の第1条に記載された経済援助と請求権問題の関係、それに関連して協定に補償や賠償が含まれていたのかという問題に話題を移したいと思います。

(次節へ続く)



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