§5 何が解決されたのか――経済協力と請求権問題
前の記事§1~§4では、日韓請求権協定によって財産・請求権問題がどのように「完全かつ最終的に解決された」のかを中心に述べました。ここでは、協定第1条に記載された経済協力と第2条の財産・請求権問題との関係を中心に述べることにします。
結論からいいますと、経済協力と財産・請求権問題とは法的に関係なく、経済協力の額も直接の関係はなく、賠償はもちろん補償といったものも含まれているとはされません。
「解決された」たとする請求権問題については次節(§6)で述べることにします。
1. 経済協力の概要
日韓請求権協定第1条で日本国が韓国に対して経済協力をすることが約されています。その内容は次の3つです。
① 日本国は、1,080億円に換算される3億米ドル相当の「日本国の生産物及び日本人の役務」を、毎年108億円に換算される3,000万米ドルを10年間にわたって無償で供与する.(第1条(a))。
② 日本国は、720億円換算される2億米ドル相当を日本国の海外経済協力基金で長期低利の貸付けし、別途締結される取極に従つて決定される事業の実施計画従って「日本国の生産物及び日本人の役務」の調達に充てられる(第1条(b))。
③ 3億米ドル以上の「商業上の基礎による通常の民間信用供与」(円借款)が,日本国民と韓国政府または国民に対し行なわれることが期待される(商業上の民間信用供与に関する交換公文)。
第1条では、これら「前記の供与及び貸付けは、大韓民国の経済の発展に役立つものでなければならない」と定め、この協定によって失われる財産・請求権に対する補償に触れていないことに注意が必要です。
無償供与3億米ドル相当は、日本政府から現金が供与されたのではなく、日本製物資と日本人の役務という形で与えられました。また、2億米ドル相当の貸付けも日本製物資と日本人の役務の調達に充てられることとされました。
サンフランシスコ平和条約14条(a)の規定では、日本の賠償の負担を軽減するため、日本人の役務の利用ができるとしています。韓国への経済協力の一部も役務という形で供与されたことはやむを得ないと思われます。しかし、「日本国の生産物及び日本人の役務」によって供与・貸付けされた資金が日本の企業を通して日本へ還流される仕組みになっていたと言えます。
2. 経済協力と請求権の関係
これらの経済協力と協定2条の請求権に関する規定との関係はどうなっているのでしょうか。つまり、請求権放棄に関連して補償や賠償が経済協力の中に含まれていたのでしょうか。
(1) 日本での説明
① 理論的・法的な関連性はない
再び、国際法学者・杉山茂雄(当時、法政大学・早稲田大学講師)が協定締結まもない頃に書いた記事から引用します。
つまり、日韓協定の条文からは、経済協力と請求権問題解決との理論的な関係は分からないというのです。
外務省外務事務官だった谷田正躬は次のように述べています。
谷田はこのように、明確に経済協力と請求権問題の「両者の間にはなんらの法律的な相互関係は存在しないものである」「あくまで経済協力として行われるものにほかならない」と述べています。しかし、経済協力と請求権問題に相互関係が全くないともしていません。
② 英仏の植民地独立にならった請求権問題の解決
1962年の第6次予備交渉で、韓国に対する債務を逐次検討して積み上げる「債務履行」あるいは「積み上げ方式」から「経済協力方式」へ転換する方向で日韓が合意した際の表現では、経済協力の「随伴的効果」で請求権問題の解決を確認すると表現しています。
椎名悦三郎(国務大臣)は、1965年11月26日の参議院日韓条約等特別委員会で、日本よりの無償・有償の経済協力は、植民地の独立し際して英仏などの宗主国が「新しい国の門出の祝いをかねて経済建設の資金を提供」したことにならったもので、賠償の性質はないと次のように答えています。
以上のことから、協定の経済協力と財産・請求権の完全解決との関係については、次のようなことがいえます。
1. 協定の条文では、経済協力を規定した第1条と、請求権問題が解決したという第2条との間の理論的な関係について説明がない。
2. 経済協力を規定した第1条と、請求権問題が解決したという第2条との間には法律的な相互関係は存在しない。
3. 日韓会談では経済協力の「随伴的効果として請求権問題の解決を確認するという方式」とされていました。国務大臣・椎名悦三郎によれば、日本よりの無償三億ドル、有償二億ドル相当の経済協力は、植民地の独立し際して英仏などの宗主国が「新しい国の門出の祝いをかねて経済建設の資金を提供」したことにならった請求権処理でした。また、経済協力に賠償の性質ははないとしています。
(2) 韓国政府の説明
日本政府では、条文通りに経済協力と請求権問題の間にはなんらの法律的な相互関係は存在しない、と言い切ることができました。韓国政府も、第1条と第2条との間に法律的な相互関係があるとは言ってはいません。しかし、韓国政府は日韓会談で請求権に基づく「債務履行」案によって補償を求めていたわけで、それが政治決着のために「経済協力」方式に転換したからといって*、経済協力と請求権は関係ないということにはなりません。
註* 吉澤文寿『日韓会談1965 ―戦後日韓関係の原点を検証するー』(高文研、2015年)104-106頁(「債務履行」から「経済協力方式」への転換)にその経緯が簡潔に説明されています。
韓国政府が1965年3月に刊行した『韓日会談白書』では次のように、経済協力は「請求権に基づくもの」としています。
そして、「経済協力」で得られる資金を「請求権資金」と称し、次のように、韓国が受取る供与の額を「請求権の額」と表現しています。
「請求権資金」の使途について『韓日会談白書』は経済活動についてのみ語り、個人の財産の補償や被徴用工への補償などについては触れていません。そもそも、日本からの「経済協力」は製品・役務・円借款によるものですから、個人に対して直接支払うような金銭が韓国に対して供与されていないのです。次記事で述べるように、「請求権資金」により導入された原資材や施設機資材の販売代金を充てたのです。
韓国政府は、当初、個人への補償は熱心ではなかったようです。韓国で、どのように対日請求権の民間補償がなされたのかについて述べる前に、日韓協定の「請求権」、あるいは請求権問題とは何かについて説明することにします。
(次節へ続く)