§3 外交保護権のみ放棄論と請求権放棄
条約による請求権放棄は、私人の国内法的な請求権を放棄するものではなく国家の外交保護権のみを放棄したという、「外交保護権のみ放棄」論を日本政府は2000年頃まで主張していました。
しかし、海外の戦後補償訴訟では、サンフランシスコ平和条約第14条(b)項で規定された「国民の請求権」放棄が国民の私的請求権をも放棄すると解釈されて、「外交保護権のみ放棄」論が否定されていることから、「外交保護権のみ放棄」論は「間違った解釈」、「無理な解釈」、あるいは責任逃れの「方便」との批判があります。
ここでは「外交保護権のみ放棄」論が、どのような事情で主張されたのか、そして、「外交保護権のみ放棄」論を日韓請求権協定に適用することの是非について考察することにします。
1. 平和条約と外交保護権のみ放棄論
1951年9月8日に署名されたサンフランシスコ平和条約(講和条約)では、国民の請求権放棄について、次のような規定をしています。
なお、韓国は連合国でも条約署名国でもないので、これらの規定は韓国や日韓請求権協定には適用されません。
条文の意味は次のようになります。
① 第14条(b)は、日本国と日本国民による開戦法規(jus ad bellum)違反と交戦法規(jus in bello)違反に対する連合国と連合国国民の請求権放棄を、
② 第19条(a)は、連合国と連合国国民の交戦法規(jus in bello)違反に対する日本国と日本国民の請求権放棄を規定した条文と考えられます。
③ 第19条(c)は、(日本国政府と日本国民が)戦争中に受けた被害について、日本国政府がドイツ及びドイツ国民に対する請求権を日本国政府及び日本国民のために放棄する(on behalf of the Japanese Government and Japanese nationals)ことを規定した条文です。
第19条(c)は、第14条(b)と第19条(a)と類似した請求権放棄の条文ですが、「日本国民のために放棄する」という文言があり表現が異なります。表現が異なるということは意味に違いがあると考えられます。on behalf of に「~のために」という日本語が充てられていますが、「~に代わって」、あるいは「~の代理として」という意味を持ちます。後述するように、この「日本国民のために」( on behalf of the Japanese Government and Japanese nationals)という文言によって、日本国政府が、日本国政府のみならず日本国民の私的請求権をも一体として請求権放棄することを約したものと日本政府は国会で説明しています。
「外交保護権のみ放棄」論は、とりわけ後者の第19条(a)項の日本国民の請求権放棄について、外交保護権のみが放棄されたもので、被害者から加害者に対する請求権は放棄されていない、あるいは、外交保護権が放棄されたに過ぎないので、日本国は国民の権利を侵害していないとするものです。
このような「外交保護権のみ放棄」論について、山手治之(国際法)は「無理な法解釈」とし、山下朋子(国際法)は「個人請求権についての法的・政治的責任を逃れるために展開された方便にすぎない」と、それぞれ次のように論じ断じます。
2. 私人(個人)の請求権と平和条約
(1) 第一次世界大戦の戦後処理と混合仲裁裁判所
国際法の主体でない私人が、自身の戦争被害を加害国に直接請求することはできないとされていました。そこで、第一次世界大戦の戦後処理では、ベルサイユ条約第304条に基づいて、当事国の合意の上で混合仲裁裁判所を設置し、ドイツに対する戦勝国の国民の出訴権を認め(同条約第297条(ホ))、私人の財産・権利・利益に対する損害の請求権について審理をしました。
混合仲裁裁判所に対する個人の出訴権の法的性質については、国内法上の権利と見るものと、国際法上の権利と見るものとに見解が分かれていますが*、国家間の賠償と私人の受けた戦争被害の賠償とは、手続上、明確に区別されていました。
私人の請求権問題は国際法と国内法の境界にあるといえます。ベルサイユ条約による混合仲裁裁判所の設置の規定は、これによって私人の権利を国際法上認める反面、条約に規定がない限り、私人(国民)の出訴権は国際法上、保証されないことを意味しているともいえるでしょう。
註* 島田征夫「戦争捕虜の賠償請求権と国際法」, 『早稲田法学』第79巻1号(2003)1-41頁, 4頁
しかし、第二次世界大戦後の日本の賠償では、私人(個人)の請求権を処理する混合仲裁裁判所は設置されませんでした。山下はその点について、次のように説明しています。
つまり、第二次世界大戦の被害が甚大であったので、日本が締結した平和条約では混合仲裁裁判所を設置せずに国家・国民間の請求権放棄させようとしたが、私人(個人)の請求権について明確な規定がなかったので制度的基礎もなく、条約締結後にその解釈に混乱を招いたということになるでしょう。そうすると、サンフランシスコ平和条約では、私人(個人)の請求権を含めて請求権放棄がなされることを目指していたということになります。
しかし、私人の請求権についての規定がないことから、第14条(b)項の請求権放棄の規定では、戦勝国の国民の私人の請求権が放棄されずに存続するのではないかという指摘が平和条約締結前にもありました。
(2) 吉田・スティッカー交換公文
1951年9月に、サンフランシスコ平和会議のオランダ代表は日本代表に対して、
① サンフランシスコ平和条約第14条(b)項の規定の解釈の確認と、
② オランダ領東インド(インドネシア)で戦争中に日本軍に抑留された一般文民にたいする補償を日本政府において道義的に考慮して欲しい、
との要望を提示しました。オランダ外務大臣スティッカー(Dirk Uipko Stikker)は、第14条(b)の解釈について、いわゆる「吉田・スティッカー交換公文」の1951年9月7日付書簡で次のように述べています。
オランダの「正しい解釈」は、第14条(b)項が規定する「連合国及びその国民の請求権」放棄には国民の私的請求権が含まれていないという「外交保護権のみ放棄」論です。ただし、オランダ側は次のような脈略で、このような発言をしていたといいます。
どうやら、第14条(b)項の規定では、私的請求権が存続することになり、従って、オランダ国民が日本の裁判所で日本政府や日本国民に対して戦争被害の賠償請求することになるので、条約としてはこれでは困る。そういうことが起きないように、日本軍に抑留された民間人に対する補償をしてほしいということのようです。
これに対し、吉田茂首相は、オランダの条文解釈に同意した上で、1951年9月8日付書簡で次のように述べています。
つまり、日本政府としては私的請求権の存続は認めるが、オランダ国民の希望通りにはならないし、オランダ政府が危惧しているように日本政府は「自発的に」私的請求権を認めない処理をするだろうという回答です。オランダに示す案文では、次のように、どのようにして私的請求権を日本政府が処理するかが示されています。
つまり、第14条(b)項は、
① 連合国政府の自国民の私的請求権に基づく日本での訴求を援助しない義務と、
② 連合国政府の国民が私的請求権に基いて訴求する権利を放棄する意味を持つ。
すなわち、国民個人の私的請求権は消滅せずに存続するが、日本においては連合国国民が日本政府や日本国民個人に対して国内法的に「追究」することはできないという意味に解釈する、としているわけです。どういう手続で「追究」できないのかは示されていませんが、いわゆる「訴権なき権利」と解釈しているようです。
ただし、「日本国政府が自発的に処理する」と吉田書簡にあるように、条約によって私人(個人)の請求権が消滅するわけではなく、日本政府の「自発的」行為によって「満足を得ることができなくなる」処理をすることができるということになります。私人(個人)の請求権は存続するが相手国では相手国の措置により「追求」できなくすることができるというのは、日韓請求権協定と同じ構造をしているといえます。
1956年3月13日に、日本政府はオランダとの間に「 オランダ国民のある種の私的請求権に関する問題の解決に関する日本国政府とオランダ王国政府との間の議定書」を締結し、オランダ国民のために 1,000万米ドルに相当する賠償金(solatium)を支払うことになりました。なお、solatium は、賠償金・慰謝料を意味しますが、議定書の日本語文では「見舞金」となっています。
日本政府が「日蘭議定書」で私人の請求権に対する賠償あるいは補償を行ってオランダ国民の請求権問題を解決するという条約を結んでいることから分かるように、日本政府も、私人の請求権に対する賠償を行う国際条約が結べないとしているわけではありません。
3. 戦後補償と新憲法
山手治之と山下朋子は「外交保護権のみ放棄」論が、個人の権利の尊重ではなく日本国民の請求を退ける法論理として持ちだされたとしています。そこで、「外交保護権のみ放棄」論が1950年代のどのような戦後補償問題のなかで形成されたのか、ここで見たいと思います。
(1) 旧憲法下の補償
旧憲法(大日本帝国憲法)下では、日本国民の権利はあくまでも臣民として認められたもので、国家の私有財産収用に対する補償規定は存在しませんでした*。私人の請求権については、国際法上は外交保護権によって国家の権利として私人の損害を相手国に請求する道しかありませんでした。
註* 旧憲法下でも、ダム建設などの土地収用にあたっては土地が買い上げられました。また、1927年に青島の居留民が命令で退去し、その間に財産が失われたことに対しては、実行されなかったものの、近衛内閣が補償するとの声明を出したとのことです(第7回国会 参議院 外務委員会 第1号 1949年(昭和24年)12月17日、北條秀一発言)。
(2) 新憲法下の基本的人権と補償
しかし、1947年5月3日に施行された新憲法(日本国憲法)では、基本的人権が規定され、国家による私有財産の収用に対する補償が憲法に明記されました。
そこで、敗戦によって引き揚げを余儀なくされた日本国民の在外資産がどうなるのか、あるいは、講和条約によって在外資産が連合国の賠償に充てられるとすれば、在外財産を失って帰国した引揚者への補償が、施行されて間もない新憲法の第29条に基づいてなされるのかが人々の関心事となり、国会で議論されました。また、安導権を保証された阿波丸が1941年4月1日に米潜水艦に撃沈された阿波丸事件について、1949年に対米請求権放棄の条約が締結され、人的被害や船の損害に対して日本国内で見舞金が支給されたことも先例として補償への関心を高める要因となりました。
なお、1945年(昭和20年)「大蔵省令第88号」第4条2 は、請求権も財産と規定しています(JACAR:レファレンスコード=A13111635400, 41画像目)。
1951年5月25日の衆議院外務委員会では「在外資産の補償に関する請願」「個人在外資産の補償に関する請願」について次のような質疑応答がありました。
1952年の時点では、このように政府側が「具体的に政府の所信を今申し上げることは差控えたい」として回答を避けています。
(3) サンフランシスコ平和条約 第19条解釈
その後、サンフランシスコ平和条約の請求権放棄の解釈については、1962年4月4日の衆議院外務委員会の内閣法制局長官・林修三が明確に述べています。
つまり、
① 日本国民の請求権を日本国政府として日本国の国民の地位にかわって放棄することは法律的に可能だが、サンフランシスコ平和条約第19条(a)項と(c)項との表現の違い((c)項には「国民のために」(on behalf of the Japanese nationals)という文言がある。)から分かるように、同条(a)項には日本国民の請求権を日本政府が日本国民の地位にかわって放棄したとは書いてないと考える。
② ただし、連合国の全てが日本政府と同じ解釈をしているかは分からない。
というのです。
以上のことから、請求権放棄は「日本国民の地位にかわって請求権を放棄する」といった意味の文言で明記しない限りは、日本国政府の持つ請求権を放棄したもので国民個人の私人の請求権は残るとする解釈を、日韓請求権協定が結ばれる前の1962年に日本政府がとっていたことが分かります。つまり「外交保護権のみ放棄」論です。
新憲法に規定された基本的人権や国家が収用した私人の財産に対する補償の議論の中で、「外交保護権のみ放棄」の議論がされたことは確かです。しかし、「外交保護権のみ放棄」論を遡れば、サンフランシスコ平和条約締結に際してオランダ政府から提起された、同条約によっては私人の請求権までは収用されないという1951年の解釈に至ります。
4. 外交保護権のみ放棄論は無理な解釈か
日本の戦後処理は、旧憲法下の事件を新憲法の下で解決しなければならないという難しさがありました。また、憲法が施行されて間もない頃の議論ですので、憲法解釈も判例が不足してたといえるでしょう。
(1) 第一次世界大戦の戦後処理では、条約に基づいて当事国の合意の上で混合仲裁裁判所を設置し、ドイツに対する戦勝国の国民の出訴権を認めました。これには、条約や国際法に特別の規定がない限り、国際法の主体でない私人が戦争被害を加害国に直接請求することはできないという前提があります。現在も、日本政府と日本の裁判所はこの立場をとっています。
(2) 旧憲法下においては、外国における私人の損害は、国家が被害者との擬制の下に外交保護権によって回復するしかなく、また、外交保護権が国家の権利であることから、外交保護権の放棄自体によって私人の権利が損なわれるわけではないので、新憲法下においても外交保護権放棄は国家賠償や国家による私有財産の収用とはいえず、補償の対象とはなりません。
(3) 戦争の結果、日本政府の意志に反して連合国によって私人の財産まで没収されることが、果たして憲法第二十九条3項に規定された「私有財産は正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる」場合に当たるのかと言えば、それは、当時の国会での議論を見ても分かるように、自明なことではありませんでした。
戦争の賠償のために私人の財産権を没収することは国際法からは導けず、むしろ、陸戦法規(陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則)第46条では「財産は之を没収することを得ず」と、私有財産の没収が禁じられています。そこで、連合国によって没収された私有財産や滅失した財産の損害に対して国民の請求権が存在するとしても、国際法上、私人が相手国に対して請求権を行使することができないという日本政府や日本の裁判所の解釈を前提とすれば、憲法第29条3項の有無にかかわらず、国際法上行使しえない私人の請求権を条約によって放棄する必要はなかったといえます。
(3) 現実的な問題として、既に他国の支配下に置かれた地域の日本国民の在外資産を全て調査することが困難であったこと、また、その金額が膨大で、損害に応じた金額で補償することが日本政府に困難であったと言えます。そもそも、日本政府が賠償金の支払いを金銭ですることが負担だとして、役務と日本国や日本国民の在外資産が賠償に充てられたのでした。
(4) サンフランシスコ平和条約 第14条(b)項に規定されたような請求権放棄によっては私人の請求権までは放棄されないとする解釈は、オランダ政府も「正しい解釈」としていました。同条約の請求権放棄の規定では、私人の請求権が残り、将来、日本政府や強制労働や虐待を行った日本国民や私企業に対して被害者である文民捕虜などから賠償請求訴訟が起こされる可能性のあることが条約締結前に指摘されていたのです。
(5) 「外交保護権のみ放棄」論は、日本政府や外務省によって国会や論文で主張されました。また、原爆判決で国はサンフランシスコ平和条約による請求権放棄に対して、「外交保護権のみ放棄」を主張しました。
以上のように、「外交保護権のみ放棄」論は、必ずしも日本国憲法29条に関連して議論されたわけではありません。
「日本国憲法29条3項に基づく補償請求に対してこれを免れ,どうしてもやむを得ない場合にはただ政策的考慮として一定の支給金や見舞金を付与することで済ませるためであった」(山手)、あるいは「個人請求権についての法的・政治的責任を逃れるために展開された方便にすぎない」(山下)とまで言えるのか、疑問が生じます。
5. 日韓請求権協定との関係
以上のように、請求権放棄の条文に対する日本政府の解釈を見ると、日韓請求権協定は、日本政府の「外交保護権のみ放棄」論に基づいて、一方の国内法的措置で他方の国民の請求権を明示的に「追求」し得なくするようにしたものであるということがわかります。
当時の条約局長が国会で、サンフランシスコ平和条約の「十九条(a)項をどう解釈するか。これはわれわれの解釈で、必ずしも連合国すべてが同じ解釈をとっているかどうかについては問題がございます」と述べているように、同条約の請求権放棄の文言の解釈が国によって異なる可能性を日本政府は認識していました*。
そこで、日韓協定では日本政府の「外交保護権のみ放棄」による請求権放棄の解釈が確定するように、相手国の国内措置による私的請求権の滅失の規定を明記し、自国民の相手国・相手国国民に対する請求権を事実上、放棄することにしたといえるでしょう。
戦争の結果に基づく賠償請求権を扱ったサンフランシスコ平和条約と、韓国の分離独立に伴う民事的な請求権問題を扱った日韓請求権協定とでは、請求権問題の解決法が異なるのは当然とも言えます。また、米軍が韓国内の日本国民の私有財産を没収したことが問題を複雑にしましたが、締結しなければ敗戦国日本の主権が回復されなかったサンフランシスコ平和条約と、二国間交渉の場で日本政府の意志が反映された日韓協定とでは、国民の請求権放棄に対する政府の責任が異なり、日本国憲法第29条3項の意味も異なっていたと言えるでしょう。
註* 1962年4月の衆議院外務委員会の内閣法制局長官・林修三の発言では、「請求権を放棄する」という表現については「必ずしも連合国すべてが同じ解釈をとっているかどうか」については問題がある、としていることから、「請求権を放棄する」という表現には国民の請求権を放棄すると解釈する余地があることを日本政府が認識していたといえます。
一方、§2 (「主張することができない」の意味)で引用した資料1 (1962年12月25日「日韓船舶問題解決方策に関する問題点(討議資料用)」4-5頁)では、「請求権を放棄する」という表現を使わないのは「外交保護権の放棄であって、個人が直接請求する権利まで消滅せしめているのではない」からだとしています。
つまり、日韓請求権協定では「外交保護権のみ放棄」による請求権放棄の解釈が確定するように、「請求権を放棄する」という文言は使わず、相手国の国内措置によって私的請求権の滅失をさせるための規定を明記したと考えられます。
6. まとめ
(1) 第一次世界大戦の戦後処理
第一次世界大戦の戦後処理では、ベルサイユ条約第304条に基づいて、当事国の合意の上で混合仲裁裁判所を設置し、ドイツに対する戦勝国の国民の出訴権を認め(同条約第297条(ホ))、私人の財産・権利・利益に対する損害の請求権について審理をしました。
(2) 第二次世界大戦の戦後処理――サ条約第14条
サンフランシスコ平和条約第14条(b)項、第19条(a)と(c)項に規定された、請求権放棄については、
① 日本政府は、1951年に条約が締結された当時から第14条(b)、第19条(a)では国家の請求権が放棄されたもので、私人の請求権までは放棄されず存続すると解釈していました。
つまり、「外交保護権のみ放棄」論を主張していました。ただし、存続した私的請求権は「追求」できないように国内法的にできるとしていました。
② 第14条(b)について、オランダ政府も日本政府と同様に「外交保護権のみ放棄」論をとっていました。
③ 日本政府は、第19条(c)の「すべての請求権(債権を含む。)を日本国政府及び日本国民のために( on behalf of the nationals )放棄する」との規定は、日本国が日本国民の地位を代表して私人である国民の請求権を放棄するものと解釈していました。
④ 連合国の全てが必ずしも日本政府と同じ解釈をするとは、日本政府内でも考えられていませんでした。
⑤ 日本政府は、サンフランシスコ平和条約の第19条(c)項を除き、同条約と日韓請求権協定のいずれでも「外交保護権のみ放棄」をしたという一貫した解釈をしていました。
(3) サ条約と日韓請求権協定の比較
サンフランシスコ平和条約と日韓請求権協定を比較すると、
① サンフランシスコ平和条約は戦争の結果の処理であり、植民地の分離独立に起因する日韓請求権協定とでは、その枠組みは同一ではありません。
② 日韓請求権協定では「外交保護権のみ放棄」論に基づいて、協定後も存続する私人の請求権を、相手国の国内措置で滅失させることとし、それに対して外交保護権を行使しないことを約する方式にし、存続する私人(個人)の請求権の処理を明確にしました。
(4) 日本国憲法第29条3項議論
日本国憲法第29条3項に規定された国家による私有財産の収用に対する補償に関連して、連合国によって没収されたり、海外に残置されたりした在外資産、あるいは戦争被害に対する補償が国会で議論されました。
上記(1)~(3)の経過や事情を考えると、憲法に関わる議論はあったのですが、必ずしも憲法規定の補償を避けるために「無理な解釈」、あるいは「方便」として「外交保護権のみ放棄」論が考え出されたとは言えないという結論になります。
(次節へ続く)