捕獲と解体
あ~
サウナに来てます。
もう、めちゃくちゃchillってカンジで、マジヤベーっス。
3/29というこの年度末に僕は自分の生命活動の意味性について今一度考察しておきたい。
僕は片田舎の一般的な家庭に生まれて、ほどほどに苛められながら学生生活を過ごし、およそ三人ほどの友人を持って新卒にあたる年齢に到達した。
僕の学生生活(あるいはこれまでの人生のほとんど)はうまくいかなかったし、成功体験も乏しい。そんな薄汚いガリガリの犬みたいな人間が何故生きるのか。
僕は自分のあらゆる要素に対して自信がないし、人間にそれほど固執することもない。
ではなにをして生きているのかというと、僕は専らコンテンツの摂取に明け暮れている。
なぜかって?
それは僕がキモ・オタクだからです。
わかりやすいでしょう。
(今だって、これ聴きながら書いてるんだぜ
https://music.youtube.com/watch?v=yShEIQFZ-hU&feature=share)
キモ・オタクという人種は特にコンテンツの消費に特化した人種であると言える。アニメゲームマンガ小説記事映画音楽配信。ゲームをコミュニケーションツールとして用いる一般的な人間とは異なりキモ・オタクは重度であればあるほどに手段を目的化してゲームを中心に添える。結果としてコミュニケーションが生じることは認めるが、少なからずそういった傾向にある。
僕は幼少期から父の影響でゲームをしていた。父は僕が幼いにも関わらずゴッド・オブ・ウォーのクレイトスでメデューサをぶち殺していた。小学生の頃には桜井政博についての説明を受けたりしていた。メテオスは桜井政博っていうスマブラを作った人が作った落ちものパズルゲーだぞと言われて渡された。
小学四年生くらいになると、クラスの日陰者たちはボーカロイドばかり聴いていたので僕もそれに飲み込まれるようなかたちでボーカロイドを聴き始めた。そういった中で僕は踊ってみたやウッーウッーウマウマ(゚∀゚)に抵抗感を感じながら中学生までそんな風に過ごした。音楽を聴く習慣はこの頃についた。
小説については、始めのうちはソードアート・オンラインとかとあるシリーズを読んでいたが、伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』を中学3年生くらいで読んでからは日本の近現代文学に傾倒した。
ゲーム、音楽、文学。だいたいこれらを中心にしたコンテンツを多く摂取し今に至る。
僕が生きる意味というのは、だいたい上のようなものに集約される。
それらのコンテンツを人々に喧伝することや解説することなどのアウトプットについては、あまり生きる意味という領域にまでは踏み込んでこない。確かに僕はそういうことをしているし一定まで楽しんではいるが、耳目を集められないのであればあまり面白くもないと思っている。
とはいえ、僕も社会という外圧によって過度のストレスを感じることがあれば希死念慮に駆られる。それも、結構な頻度で。
僕は親が基本的には嫌いだし、散々死のうとも思ったが、なんとか生きている。死というものが不可逆なものであり、本能的に忌避するものであることが大きいが、あとは偶然の賜物である。
僕は先天的にか、あるいは幼少期の環境のせいか、社会性を欠いている。
社会性を欠いているから泣きじゃくりながら学校の机にペンで傷を刻んでも特に問題はなかったし、行事のときにトイレで小説を読んでいても問題なかった。社会性がないから教師にチクってもやはり問題がなかった。
僕にはなにも守るものなんてなかったし、自己を優先することについても遠慮がない。世の中はクソだし、遠慮をしていても仕方がないので我を通す。スカイリムをゲオに売る前に村人と衛兵を皆殺しにするようなマインドに近い。
しかしながら、2000年代の日本に生まれた僕という人間は社会的振る舞いを徹底して教育されている。だから、他者への遠慮や礼節といったものはほとんど無意識的に行ってしまう。
例えば年配の人間が急に現れたからといって、年配の人間であることを目視してから頭の中で言葉遣いのモードを手動で切り替えるようなことはしない。勝手に僕は丁寧語で喋りだす。
ただこのような他者を敬う態度が行き過ぎてしまうと、自己犠牲的な性格になる。なにかネガティブな事象によって自己肯定感が損なわれれば、やがて生きる意味についても見失う。
「生きる意味を見失う」と書いたが、そもそも生きる意味なんてものを探し求めている状態は結構な異常であると言えるかもしれない。
正直に言って、生きる意味なんて僕は馬鹿馬鹿しくって考えていられないのだ。
もちろん考えるときもあるけれども、だいたいそういうときは希死念慮に駆られている気がする。学生や社会人というロールを務める期間のそれぞれに適した生き方があって、僕はそのレールのようなものに則って生きている。
レールというと中上流階級の学歴主義な教育のようにかっちりしたものが想起されるのでここでは「轍(わだち)」としよう。
少なくとも僕は、2000年代日本の一般的家庭に生まれた生物学上男性(性自認も男性)の痩せたアジア人としての自然な生を送っている。
ゲーム、音楽、文学に興味を持ったのでそれらを摂取し、時に書き、喋り、下手くそな歌を歌いながら生きている。そのことを僕は日常の中でわざわざ意識することなんてない。
実のところ、僕はこの文章を精神的に参った人に向けて書いている。誰も僕のことなんて興味はないのでこんな文章を書く意味なんてほとんどないのだが、どうにも必要なようであるから、ここまで2200字ほど書いてしまっている。時刻は0:45。
つまりは、生きる意味なんてものはわざわざ考える必要はない。問題なのは、死にたいと感じる根源的な要因にある。生の状態というのは言わば意識なしには存在し得ない「私」にとっては至極当然な状態であるから、そこに意味なんて端から存在しないし、意義を設けることも重要なことではない。
問題は私を死に駆り立てる要因であって、それをポジティブな生の意義というもので対抗しようとするのはあまり得策ではない気がする。もちろん、生によって得られる愉悦(僕で言えばコンテンツの摂取)はあればなお良いが、それらはやはり当然のものとして存在しているべきであって、心身が疲弊した異常状態でそれらに強い楽しみを見出そうとするのはちょっとむずかしいことのように思える。
死に駆り立てる”なにか”を暗闇の中でとっ捕まえて、握りしめて、ライトで照らし、片手に本を持って解体し、つまびらかにすること。
そして解体した”なにか”を然るべき液体に漬けること。
そうしないことには、楽しめるものも楽しめないし、仮にそれに没頭できたとしても、それを失った途端更に希死念慮は激しくなる。
僕が抱えていた問題は親や学生との意思疎通の不可能性であった。僕はそれをある程度割り切って、自分の周波数と合致する他者と関わることによって解決してきた。よって、依然として僕は本当に自信がないし、自己否定しがちな痩身のキモ・オタクである。
僕が生きる意味はなんだろうか。
特に無いので、「取り敢えずバカ猛暑みたいな部屋で無駄に汗をかいて身体をほどいてバカ冷たいだけの水に身体を漬けること」にしておきます。
こういう「良い・・・・・・」と思える日常風景が、生という期間に見るふつうの光景であり、ある意味で生の糧というか、生きていて良かったと思える一瞬一瞬であるかもしれない。そして自分の精神状態を測るリトマス紙かもしれない。