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【日記】影響を看破することの功罪 2022.8.28
この世のあまねく人々は言うまでもないことながら、なにかからの影響というものを受けている。
国や家族、友人などから受ける影響というのは私生活や思考などのあまり見えない箇所に表出するものであると思う。だがもっとわかりやすく且つ独特な影響というものは存在する。
文体がその好例だ。
幾らかこれから鋭利なことを書く。人によっては耳が痛いかもしれない。
noteのホームを見ていると、オモコロ等を楽しんでいるような層のオタクの記事がたくさん出てくる。ほんとうにたくさんでてきて食傷気味になるほどだ。
文体への影響というのはマクロにもミクロにも存在する。
書いている内容が日記で、一文ずつに中黒が付されていればウロマガ購読者と推察される。すべてがそうであるとは言わないが多くの場合そうなんじゃないかなと思う。
「~~ちゃった」なんかはもう、コッテコテだ。コテコテのオモコロ好きクン。コテコテすぎて笑っちゃった。
「お前らの書かんとする日記やおもしろ(くしようとしている)記事なんぞ全部お見通しだし、お前らの営為はまったくもってウケることのない塵芥に等しい」
などと言いたいわけではない。
そんな指摘というか、個人へのディスリスペクトな発言をすることにメリットがそんなにないからだ。
ケツ丸出しみたいなその文体や形式へのかぶれ具合を馬鹿にすることはただ争いの火種になるだけだ。それに、その火種はあまりにたくさんの人々を焼くことになる。僕を含め。
読んでいると、「影響受けてるなあ」と思うことは確かにあるわけだが、それだけのことでしかない。そのパターンを既に知っているから新鮮味こそないが、ある意味ではその文章のテンションに合わせることには慣れているから読み進めること自体は容易だ。
トゲのある言い方をすれば、彼らのしていることはオモコロライターの真似事だと指摘することは可能だし、実際そうだろう。
真似事というとネガティブな印象を持つかもしれない。けれども、真似事はいけないことなのだろうか。別にクリシェに塗れたnote記事を書きまくること自体、そんなに批判されるべきことでもないのではないか。
ここまで散々、オリジナリティの欠落を揶揄するようなことを言ってきたわけだが、ある程度は他者に強く依存した文体による執筆期間というのも必要なんじゃないかと思っている。というか初めのうちは避けられないのではないか。
僕にしたって、小説等を書いていた四年前は村上春樹の文体模写に心血を注いでいるのか疑うレベルのかぶれ具合だった。かぶれているというとその状態をよしとしているようにも思えるけれども、少なくとも僕はあんまり文体について意識していなかった。ただ文章を書いてみたらそうなってしまったのだ。その頃は特に村上春樹をたくさん読んでいたからそうなってしまった。
文体(乃至、内容)がなにかの影響を受けている内というのは一種の訓練期間だ。「学ぶ」の語源は「真似ぶ」から来ている(クリシェすぎる(「すぎる」もクリシェ(どんどん括弧をつけてぐちゃぐちゃにするのもクリシェ))))。
なのでまあ、最初の内はモロに影響丸見えでもいいんじゃないか。
ただそれによってなんの反応ももらえない期間を過ごすというのも結構苦しい。文章というのはイラスト等とは違って伝達する内容というものがより明確に設定されているから、読み手の存在を感じないことに辛さが伴いがちだ。少なくとも僕は反応がないと辛い。
こんなことを書いている今だって僕は、誰からも読まれないnoteを書いている控えめなオタクたちが住む同じ穴の狢だ。
もしそういう状態から脱したいのであれば、僕たちは僕たちの受けている影響についてよく観察する必要がある。
僕たちはその影響の存在を看破し、そして看過する。看破してしまって自己嫌悪に陥ったり馬鹿にしたりする必要はない。
ある程度の期間を経て、僕には自分の文体みたいなものが備わったのだろうか。ちょっとよくわからない。左手で描いた粗雑なキメラみたいな文体になってしまったようにも思える。
今後はこの不細工なキメラを、右手で描かれた未曾有の化け物に仕立て上げていこう。