【解説】文学作品を読む意味と、その方法――村上春樹を中心に――
こんにちは。
クラッシュ・バンディクー(以下、改まった場であるため「バンディクー」)と申します。
あまり前置きは長くしたくないのだけれど、文学というものについて語るときには、まず語り手である私がどのようなものをどのような熱量を持ってして読んでいるのかについて説明しなくてはならない。
どうでもええねんそれでええねん それで(えー えー えー ええねん)
と思われる場合には「Ⅰ 小説を読むことの意味」まで飛ばしてください。まあでも短いから読んでいってよ。
私は村上春樹を中心に研究発表などを行っている。近・現代の日本文学に興味があったので文学部に入った。大学で研究対象とされる小説というのは多くの場合、純文学と呼ばれるような種類のものになってくる。簡潔に示すなら所謂「文学」ともてはやされているようなものだ。芥川とか太宰とか。
私は大学に行って、わざわざそういうゼミに入り、研究資料などを読んだりして作品解釈を行っている。きっと職には繋がるようなものではないだろう。
でも、やっている。
なぜだろう。大卒という身分がほしいためだろうか?
たしかにそれもあるかもしれないけれど、バンディクーはバンディクーなりに、文学について考えることに意味性を感じているからこそ、勉強している。
ではそれほどまでして学ぶほどの対象となっている文学というものの意義と性質の説明をしていこうではないか。そして文学作品の読み方についても以下に示していこう。本当に短くなっちゃった。
Ⅰ 小説を読むことの意味
ここでは小説を読むという営みが行為者にあたえる意味について考えてみる。研究する意味についてもこの項目で説明がつくはずだ。
※大前提
まず前提として、小説というものは漫画などと同様の「読み物」である。そして多くの場合はフィクションである。
つまりは小説とは他のものと同様に「娯楽」と呼ぶことのできるものだということを念頭に置いておきたい。
そしてそのような娯楽物をどのように摂取するかは各人に委ねられている。テクストは読み手ひとりひとりの如何なる読み方も否定することはない。
なので本稿の文章はみなさんの小説との向き合い方が誤っているなどと糾弾するような目的の元に書かれているわけではないことをご了承願いたい。
以下に示されている文章は私個人の文学との向き合い方でしかない。
そのため、本稿の文章では極力断言することを避けている。断言しきってしまった方が読み手にとってもすんなり入ってきて、閲覧数も増えるとは思うのだが、断言によって他者の営みを侵害することはしたくないので村上春樹的な文末になってしまうことをご了承願いたい。(最近のしょうもなnoteの自己啓発臭さが好きじゃないんですよね。胡散臭すぎ。)
文学というものが如何にして権威のようなものを持っているのかを知りたい方、文学に面白みを感じる方法がわからない方に、本稿は文学を読む手引きのようなものとして幾らか役に立つかもしれない。
1.生活・思考への還元(ただ、それはとても微細なかたちで行われる)
私たちはなにか作品を鑑賞したときに、その作品の世界を「虚構の、どこか遠くの世界」として認識してはいないだろうか。
そういう人は少なくないんじゃないかと思う。
というのも多くの魅力ある――特にラノベや漫画、アニメなどの――作品は、その物語自体であったり、フィクションであることを生かした非現実的な描写、設定などによって読み手を楽しませている。
だがそういった娯楽の享受方法を文学作品にも適用してしまうと、文学作品はいくらかつまらないものになってしまう場合がある。
多くの名作とされる文学作品はそのような読み方をしても楽しめるような面白い物語構成をしていることが多いのだが、昨今のサブカル的な作品が持つようなフィクションを活かした濃い味付けの作品には劣ってしまうかもしれない。
では文学の良さとはどこにあるのか。
それは特定のキャラクターなどに依拠した物語ではなく、その物語構造が影絵のように観念を表出しているという点であると私は感じている。
一口に文学の長所について述べることなど本来は不可能ではあるのだが、ここでは他のカルチャーとの差異を押し出す形でひとつに集約して示す。
オタク的な文化に見られるデータベース消費的な鑑賞のされ方とはその性質を異にしているということを示しておきたい。文学は物語という形に置き換えられた書き手の思考や観念であり、大きなメタファーであるとも言える。
物語は時代や場所、人物という、表層を包む肉をまとうことによって物語として成立する。
私の感覚では一般的に消費されている作品の多くはこの肉質部分を味わうべくして作成されているものであり、文学の場合は肉を摂取しながらも同時に骨をも味わうことのできるコンテンツである。その方法については「Ⅱ 文学作品の読み方」において後述する。
さて、生活・思考への還元と小見出しで銘打っているのだが、この還元は括弧内にもあるように、なにか劇的なかたちで訪れるものではないことを断っておこう。文学は自己啓発本ではない。
自己に大きな変革を求めることを主目的として文学を読むというのもまたひとつの読み方ではあるのかもしれないが、ラディカルすぎるなとも思う。緩やかに自分の在る場所が変わっていくような感じが文学作品の鑑賞には伴う。文学に強い教訓めいたものを見出してしまうと、手籠めにされすぎている感じがしてならない。事実小説を評する際にはネガティブな意見として「説教臭い」、「説明的だ」という言葉が出てくるので、明確すぎる啓蒙みたいなものを見出さんとするのは文学の主旨とはズレが生じるような気がする。
物事を感じる際に読書経験によるフィルターがかかるといった感覚、という説明が適切かもしれない。
でもそのような感覚を得るために読書をしているのかと問われると、それもまた違う。フィルターを獲得することは副次的なものに過ぎない。
読後にもたらされるこの感覚もまた尊いものではあるが、読んでいる最中にもたらされる面白みというものがあるはずだ。
それによって読み手はページをめくることができるのだから。
2.物語の構造美と、暗喩を見出すという営み
「物語構造」と言ってもなんだか漠然としているので、ここでは
「人物や場所、時間という諸要素が対照的であったり符合していたりしているという関係性」という文章に換言しておく。
文学においてモノや場所や人物などに何かが仮託されていることが多い。
例を挙げると芥川龍之介『羅生門』における「下人」の面皰(にきび)を「若さの象徴」と述べる者も居れば「自意識の表現」と解釈する者も居る。その他にも死体の捨てられた羅生門の二階にある「松明」なども、下人の義憤に呼応しているようにも読むことができる。優れた文学作品というものはしばしばこのような暗喩が施されている。それを自身で推察してメタファーの存在に気づいたときには面白いと感じられる。騙し絵のもうひとつの見方に気づいたときのような感覚に近いかもしれない。
村上春樹はしばしば作中に「井戸」が登場し、論文においてはフロイトやユングの説いた「イド」と関連して解釈されることがほとんどである。
実際、このidを交えた解釈というものはかなり物語の構造と合致する一定の強度を持った解釈でとても魅力的だ。この論はバンディクーが文学に腰を据えて触れようと感じるようになった契機でもある。ただ、このような一つの考え方はあくまで一定範囲内の読み手の中で共有されているものに過ぎないのでそれを公式のことのように説明してしまうのは視野を狭めてしまうことになり、あまり良くないことのようにも感じている。今のネットでは原作と解釈とが綯い交ぜになってしまって作品鑑賞が画一化されてしまっているような気がする。猜疑心を持つことをおすすめする。
構造について追記すると、村上春樹では『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』などは明確に世界が二分化されている。彼の他の作品でもこのような世界や人物の二項対立を見ることができる。
森鴎外『舞姫』では近代の日本と留学先のドイツというふたつの場所が描かれ、近代日本では家制度が強く残っている一方でドイツでは主人公の豊太郎が自由を謳歌し、恋に落ちる。だが結局は家に象徴される日本の堅牢な社会システムに組み込まれる形で復職のために日本へと帰る。
単に物語の表層を読むに留まらず、殊に文学作品では語り手の内面や読み手の視点から得られるメタ的な物語構造を認知することでその作品をより深く読み取ることができるのではないだろうか。
Ⅱ 文学作品の読み方
さあ、ここからバンディクーが拙論をしたためるときや普通に小説を読むときのことについて書いていくよ。
まず、読み方なんて言ってるけども小説の読解なんて特別して意識することなんて無いと言ってもいい。文章を読む目(あるいは手の触覚)によって文章を理解するという行為にあまり差異はない。語彙だってネットで言葉を調べればギャップは容易に解消される。
基本的には読書経験によって培われてくる部分でもあるんだけど、文学の読解における大事な部分はもう説明してしまっている。Ⅰ-2においてその凡そを記している。構造や暗喩が文学には配されている、ということを知った今では作品の中にある「引っ掛かり」に敏感になるはずだ。
ほとんどの作品において言えることだが、作中ではリアリズム小説であったとしてもなにか普通とは違う「変な出来事」や「印象に残るような描写や言葉」が散りばめられている。
村上春樹などを読んでいると、
「なんでそこで急にセックスしちゃうの???」
などの疑問を持つことになるだろう。『ノルウェイの森』の最終盤なんかがそうだ。人によっては嫌悪感を示しただろう。
特に語り手に強く感情移入するような読み方をする場合には語り手の行為が理解できずに読むのを止めてしまうかもしれない。
これは提案でしかないが、小説を読む際には語り手に自身を投影しすぎるのは辞めたほうがいいかもしれない。語り手の異様に感じられる行為は、書き手である小説家だって異様だなと思いながら書いているはずだからだ。語り手=書き手という思考も読解の幅を狭めてしまうだろう。
つまりは感情移入というものは能動的に行われるものではなく、自然に起こるもの、あるいは起きるべきものであるのではないだろうか。
少し脱線したが、それほどまでに強いインパクトを持ったシーンの描写は読み手に「引っ掛かり」をあたえる。
書き手は意味もなく物事を描写することはない。映画などとは違って偶然カメラになにかが映り込んでしまうといったアクシデントはないのだ。作品の内容はすべてが書き手によって統御されている。つまりあらゆるシーンが意味を書き手によって吹き込まれている。
読み手はそれをまったく完璧に理解しきってしまうことはできないし、書き手の意図しない解釈だってすることもあるが、そのようにして意味を模索する姿勢は文学をより楽しむことのできる読み方の一つであるとバンディクーは思っている。
文学作品を物語の表層的な部分のみ刈り取るようにして読んでしまった場合には「つまらない」と感じてしまうことがある。
かく言うバンディクーも初めて村上春樹を読んだときには「理解ったつもり」になっていた。
実際にはなんかよくわかんなかったけど。
でも村上春樹はその手の文学作品の中でもストーリーが面白い部類なので「なんとなく良い」と感じていた。バンディクーは「引っ掛かり」となる箇所を読んでいながらも、それについての解釈を持つことができないでいたのだ。
そこで、他の人は――ここでの他の人とは特に文学に熱心な人を指す――どのような読解をして村上春樹という作家とその作品を評価しているのか気になってネットで色々と調べた。
「謎解き 村上春樹」という個人の文章を読んだり、論文を読んだりして知見を深めた。
バンディクーは始めのうち「謎解き 村上春樹」を読んで
「おもしれ~~~」と思っていたのだが、このブログは題にもあるように「謎解き」を主軸にした視点に立っているので、場合によってはその謎解きをしようとする視点に立つあまりに身も蓋もない話になってしまっていたり、それまでに構築されていた象徴が蔑ろにされていたりなどしていた。
文学的な読解がなされていながらも、同時にミステリに向ける眼差しのようなものもあったために、バンディクーはさらなる疑問を持つようになって論文にまで手を出し始めた。
そのような経験を経ていくことによってバンディクーはバンディクーなりの読書形態のようなものを確立するに至った
Ⅲ まとめ
ここまでバンディクーなりの文学作品の鑑賞方法について説明した。義務教育においては国語として触れられている文学であるが、その本質的な箇所に担当教員によっては触れることができないまま成人を迎えることもあるかもしれない。事実、日本人は日本の小説家の名前は知っていても読んだことはなかったり、「読みはしたがよくわかんなかった」という感想に留まってしまっている人が散見される。別に僕はそれを憂いているわけではない。文学は生きていくのに必須なものではなく、あくまでも娯楽のひとつだ。
私が本稿で行ったのは文学という大きなジャンルの布教のようなものでしかない。なにかと作品や作家の名前の聞く機会の多い文学であるが、その内実については黙殺されがちであるように感じたため本稿を書くことを決心した。
表層部分を読むことを少し批判するようなことも述べたかもしれないが、村上春樹をよく読むバンディクーも、村上春樹を揶揄するようなツイートもそれはそれで面白いと感じている。熱心なファンなら憤慨するのかもしれないけれど、春樹作品の語り手がすぐ女性と寝ることへの「引っ掛かり」を感じている証左でもあるのでまぁ面白いなと思っている。
物語というか、なにかと揶揄されている諸要素がふんだんに盛り込まれていて面白いのは短編「ファミリー・アフェア」だ。
短編集『パン屋再襲撃』に載っているこの短編の語り手は皮肉屋で、ジョークばかり言う。春樹作品の中でもかなりヤなやつだ。ただ、作品を包んでいる温度感や作中に登場する語り手とは対照的な人物との対比などはとても面白い。
ストーリーの面白さと文学性みたいなものは、両立する。ただミステリ的な読み方とは少し相性が悪いかもしれない。
「何故そうなるのかわからない」ことを、「何故そうなるかわからない」ままに消費することが文学作品(特に村上春樹)を読む際に留意する数少ない点であると言えるかもしれない。未知を未知のままにしていることにも、意味があるはずだ。
ここまで読んでいただいた皆さんにバンディクーから、良い読書体験の訪れを願う。