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【日記】目的化のレッテルが剥がれかけたとき 2022.8.30

これは、投稿できているのだろうか。

今日はたまに来る、自分の営みが虚しく感じるターンだった。それ故に日記の書き出しも大幅に遅れた。急に日記を書くのをやめてしまおうかと悩んでいたためだ。


日記を書いても、大して良いことはない。

毎日文章を書くというその性質上、その文章的な質は低下してしまう傾向にある。もっと人目に触れるとか、日記を書くことによって金銭を得られるなどの外部的要因がないことには日記に十分なコストを割くことが難しい。


読点ひとつをどのように配すか、といったことに苦心するだけの価値が僕の日記にはないのだ。


『読みたいことを、書けばいい。』においては文章によって承認欲求を得ようとするのは非効率的であると述べられている。

これは実際、そうだろうと思う。イラストや動画などの方が個人の主張みたいなものは希釈されるし、それ自体が消費しやすい。

文章というのは、その扱う内容の主軸がなにかの事象や流行のコンテンツであったとしても、書き手の権威性によってそれ自体が大きく左右される。


そのようなある意味で時代遅れな、文章という媒体を用いてなにかを表現することを継続して行うには、表現の結果として結実する記事を取り巻く反応ではなく、記事の制作過程や記事それ自体の発生に充足感を覚えるべきなのだ。


そのような充足感を得るには、日記というのは執筆に伴う責任が軽すぎる。日記を書くこと自体に社会的な価値を確立しないことには、毎日投稿などちょっと馬鹿馬鹿しい。


とはいえ、なにかを書くという習慣は執筆のハードルを大幅に引き下げたことも事実。その習慣の維持のためにも日記は続けたい。あと日記を書くこと自体にも多少の面白みを感じてはいる。極めて少ない面白みではあるが。

日記は、手段であり目的だ。執筆の肩慣らしでもあり、それ自体が読み物でもある。

執筆ハードルを下げるための日記という「手段」を「目的化」することによって僕は日記を継続することができる。ただこの目的化に失敗する(日々の中で目的化というレッテルに揺らぎが生じる)と途端にやる気がなくなってくる。

これはある種の倒錯からの目覚めでもある。


ただ、ウケていない期間になにか表現するには自分の脳みそを騙しておく必要がある。



そうしないことには無名なのにnoteで日記を書くなどという、非効率的で嘲笑の対象となるだけの営みなど、してはいられないから。


今日はそういう日でした。嫌になって社会的なことからサボタージュしてぼうっとしている。そういう日がないといけない。


僕はサボるサボると言いながらサボれていなかった。もっとサボろう。


休もう、ONCE MORE


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