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【日記】ローストビーフ、一閃 2022.7.15

またサーターアンダギーを、早朝に買って食べた。

午前五時の曇り空は全体的に暗い青の色彩を帯び、その青の一部が雨粒として落ちてきた。誰もいない。

とても良い雰囲気だった。暗い外と雨が好き。なんというか、ふつうの晴れとかよりも時間として別個に認識しやすいような特異性がある。


昨日は日記を早く書きすぎたので、その日の夜のことについて記せなかった。

昨晩、ちょもす氏の配信でコメントしたらちょもす氏に
「せとくんのnote読んでるんだけどさ~」
と言われて「え!?」と驚いていたら続いて
「暗すぎん?」と言われた。

このアーカイブの00:01:50から僕への指摘を確認できる。

指摘の内容としては「文章が暗すぎるので読んでいる側まで落ち込む、読者を楽しませろ」とのことだった。

ご指摘いただいたことは大変恥ずかしくもあったのだが、非常にありがたく、嬉しくもあった。

ちょもす氏のような方――僕は彼のマガジンを購読しTwitchもサブスクするほどに彼を敬愛している――に読んでいただいているということも喜ばしく思う一因であるのだが、これにはもうひとつの理由がある。

僕は自分の書いている文章に対しての客観的な評価というものをほとんどもらうことができていなかった。
そもそもの読者数の少なさがそうさせるところもあるが、単に知り合いであるために指摘しにくかったり、あるいはそこまでの興味がなかったり、特筆すべきことがなかったためではないかと思っている。

そんな中で信頼できる書き手であるちょもす氏から意見をもらえたというのはとても大きな収穫だった。この場でお礼させていただきます。


では自分の文章のなにが良くないのかについて考えてみる。

いただいた指摘を参照すると、僕の暗さがとても良くないらしい。
この暗さの源泉はなんなのかというと、たぶん自己責任論と不遇意識の対立にある。

僕はたびたび書いているが、なにか発信して結果が振るわなかったときに刹那的な不遇意識を感じてしまうときがある。

それが刹那的である、ということは説明していて、ほとんどの場合あとには「だが」「しかし」と繋がって自己責任であることを述べている。

ところが、この刹那的な不遇意識を文章としてしまうことによって、その暗い感情はたしかにそこに在るものとして扱われる。
これは見せ消ちみたいなものだ。

もう恋なんてしない なんて言わないよ絶対、だ。

でも槇原敬之のこの曲名は「もう恋なんてしない」だ。

文章にもそのような作用がはたらいてしまって、あとから正当性がないと否定している不遇意識が拭えないままに残留する。そこに書いてあるんだからまあそうもなるだろう。

加えて後から不遇意識を否定する自己責任論も、返って自身を可哀想な存在として見せるような効果を持ってしまう。自己弁護に徹しているように見える。卑屈な態度によって同情を誘ってしまう。それがまた、一見矛盾している自己責任論が不遇意識を手助けしてしまう。

不遇意識と自己責任論という二項対立が僕の中にはあって、間違いなく後者が正しいということは理解しているのだが、僕は前者の意識を是正できないままいる。そのことが文章から滲み出て、読み物として愉快さは削がれる。

自意識までもが絡んでいるこの問題を解決するまで、この話題を書いたり言ったりすべきではないというのが、僕の考えた結論だ。

日記は自分の思考や感情を外に出して整理することを目的にしていたけれど、ネットに公開して読み物としての機能を期待する場合には、それを敢えて言わないことが大事なんだろうな。


これらの記事にもあったが、発信するものは選ばないといけない。

僕は炎上こそしてないけれど、質問箱で厳しい言葉をいくつかもらった。僕の行いを快く思わない人たちからしてみれば、作家の真似事をしている馬鹿なやつというのはきっと滑稽だったと思う。もしかすると読者よりもアンチの方が多くて彼らは仲良くしているのかもしれない。

もっと読まれていれば炎上だってあり得たかもしれない。そういう意味では後者の記事は僕にとってクリティカルな内容だった。


ちょもす氏は僕の日記を一応は「面白い、おれは好き」と言ってくれたわけだが、それは割に俯瞰で見た結果としてその陰鬱さが面白いというものであるし、やはり僕はこの負のスパイラルから脱さなくてはならない。

実際に読み物として、日記それ単独で目を通したとき、多くの読み手に残るのは、陰鬱な文章とそこから滲み出る一周回って「世界が悪い」という責任転嫁の姿勢への嫌悪だ。

僕は不遇意識(世界への憎しみ)が間違った認識であることを頭ではわかっているつもりだ。でもそれが刹那的に生じた時点で、あるいは刹那的に生じたことを叙述した時点で、僕は負けている。

仮に一瞬湧いて出たとしても、その感覚は良識によって希釈していかなくてはならない。そしてそれは文章にして可視化すべきではない事柄なのだ。


自分の思考を出力することを目的としていたが、それをするにはもっとふさわしい場があるのかもしれない。有料記事などのクローズドな場などがそうなのだろうか。いや、なんで金を払って暗い文章を読むのだ。多分ちょっと仲のいい人と話すくらいに留めるべきだろうな。弱音は稀に吐くくらいにしよう。

質問箱に厳しい言葉(というとマイナスに聞こえそうだが)をくれた人たちには、本当に感謝している。しんどかったけど、それがほんとうの忌憚ない読み手の気持ちだったんだと思う。わざわざURLを踏み、送ってくれるのだ。僕は最後まで攻撃性を肯定する。それは悪ではない。間違いなく。
「こいつ馬鹿だね~」と言うのは、実際楽しい。質問箱の文章だけではわからなかったけれど、中には愛憎の入り混じったものもあったかもしれない。

いくら書いても、晴れることはないのかもしれないが、僕は自己に責任を持ちたい。飽くまで暗くない、卑下や自傷的でないかたちで。


今日はサーターアンダギーしか食べてなかったので、夕食にローストビーフを買った。ちょっとだけ安くなっていたので。貧乏学生のくせに調子に乗るなよ。

ソースが付いてなかったのでそのまんま食べた。おいしかった。皿の底はカジリガメの甲羅かよってくらいに盛り上がってたけど。


ほどほどにがんばります。このローストビーフに誓って。

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