【日記】表現という行為の恥ずかしさ 2022.5.30
短め。
なんというか、散文的なものを書くような界隈(そんなものがあったとしても僕はあまり入りたいとは思わないし、それの最も大きいものが文壇と呼ばれるものなのだろう)の存在については自然に受け取ることができるとは思うんだけども、それが詩的なものとなってくる場合には結構性質が異なる。
まず第一に、世間における「ポエム」という単語は馬鹿にするようなニュアンスが込められがちであるように、詩的なものはやはり結構恥ずかしいものというような印象がある。実際よくないんだけども僕もそういうような印象を持っていた。
詩。まるで良さがわかっていなかったし――今でもそれは十全には理解できていないだろう――そこに僕は痛々しささえ感じた。詩人には自己陶酔しているものだというような感覚もあったし、なんというか、つまるところは粗悪なエモさの演出みたいなものを感じていた。
あるとき僕は短歌に触れる機会というものを得たわけだが、僕は短歌の中でも現代短歌的なものを好むし、あまりにも漠然とした景色だったり季節について歌うようなものは好きになれなかった。
この趣向はたぶんあんまりよくない趣向なのだけれども、まったく興味がないよりかはマシなんじゃないか。
僕が現代短歌に興味を持つきっかけとなったのが木下龍也『天才による凡人のための短歌教室』であるのだけれども、良い意味で本書は僕が短歌に対して抱く「先天的な才から生じる俗世とは隔絶された、弱々しい儚さの表現」みたいな印象を払拭してくれたように思える。
短歌という形式はなんか、表現方法としてとても丁度いいなと思えるものだ。
短歌はその字数と音のリズムという制限によって散文では表出することのできない、クオリアに訴えるような質を提示することのできる装置だと思う。
でもやっぱり公でそういう活動をしてますと宣言するのは今の僕にはできそうもない。とても恥ずかしい。やっぱり僕にとって詩は羞恥を伴うものとして存在している。小説だって十分に恥ずべき代物なのだが。
あらゆる表現とその発表に、羞恥心は付き纏うものということだ。それが表現を表現たらしめているのかもしれない。羞恥の伴わない表現は表現としての質がいくらか落ちたものになるのだろうか。慣れてきたり人気を得たりなどの外部刺激があれば別だが。
おわり。