【日記】僕はやはり、僕の家族が嫌いだ。本当に。 2022.5.8
下宿先へ行くための新幹線に乗るために駅へと向かっていたのだが、田舎特有の車が一台しか通れない住宅街の道で、親が歩行者に文句を垂れていた。
歩行者は子連れの夫婦だった。車が来たので脇に避けているといった様子だった。
親の言い分は歩行者が別な場所に避けた方が向こうから来る車が脇に止めることができて自分たちも円滑に道に出れたというものだった。
ただ、歩行者の視点からするとそういった状況把握は案外できないものだし、そこまで露悪的な態度でもなかった。
仮に歩行者の動きが効率的でなかったとしても、幼児用の小さな乗り物に乗る子供を連れた、小回りの効かない親子の温かな日曜日の午前に、口汚い言葉を浴びせるというのはちょっと褒められたことではない。窓を開けて言っている訳でもないから無論歩行者に聞こえることはないんだけど、僕は親のそのような態度を幼い頃から見てきたし、そして当時から親の一方的な文句みたいなものに嫌気が差していたのを覚えている。
そういう家庭内の視点から子供が見る親の一方的なタチの悪い文句というのは子に幾らか悪い影響をきたして屈折してしまうんじゃないか、と言うようなことを漏らしてしまった。
これに対して親は「意見であるから別に窓を開けて言ったって構うものか」というようなことを宣っていた。「その程度で屈折するならみんな屈折している」とも言った。
僕は本当に、僕の親という人間の内省の欠如に絶望した。僕だってまだ二十歳そこそこで人になにか言えるような立場でもないが、彼らの人間性の稚拙さ、劣悪さについては擁護しきれない。
僕は親のことが以前から嫌いだったから、彼らの誤った認知と行動を反面教師として扱ってきた。
だが弟の場合はそのようにもいかなかったようで、彼らの悪い性質を継承してしまっている。
日曜日の何気ない道路での、ちょっとしたミスとも言えないミスを、なぜ穏やかな心をもって甘受することが出来ないのか。まして、車内は一人ではなく、家族全員が乗っている。そしてその車内の空気は幼少期からそれほど変容していない。
そして僕はその空気の中で育ってきたのだ。
僕が親を嫌悪しているというところからポジショントーク的に見えるかもしれないけれど、やはり彼らの考え方はどこか間違っている。僕は中学生の頃にFPSタイトルをプレイすることを当時のゲームへの偏見から禁じられてきたが、僕から言わせれば車内での件の態度の方がよっぽど教育に悪い。
明治期のような家制度は崩壊したと言えるけれど、やはり今日においても家族という枠組みは抜き差しならないものとして機能しているし、人格形成にも大きく影響を及ぼす。
そこから脱するためには最早、彼らにはデタッチメントな態度を示さざるを得ないし、物理的に離れることが必至だ。
僕が彼らを論理で打ち負かすことは容易だ。
けれども、最早彼らに論理は通じるところではないし、ましてや小生意気な子供である僕の口から発せられる言葉によって彼らが自己を省みることはないだろう。
なのでとても単純な話、僕は彼らに構っている場合などではないのだ。
低次な価値観と認識と規範をもつ人との関係を諦めるように、そのような妥協を家族に対してもしていかなくてはならない。親を尊敬できないというのは悲しいものだとも思うがそれは仕方の無いことなのだ。
母がアマプラでドライブ・マイ・カーを観たと言った。感想は「村上春樹っぽいな〜って感じだった」だそう。
お前に一体、村上春樹のなにがわかると言うのだ。
僕は切符を買って改札口を通り、適当に手を振った。そうしないと母は不機嫌になるからだ。
どうか今後とも、自他の内面を見つめようとしない無神経さで僕のすべてを黙殺してほしい。