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【日記】精神的ケアルガ 2022.5.19
依然として僕は「病もう」という心持ちの元に、激しく病んでいた。
だが朝の10時頃にもなってくると、もうそのようにして病まんとして病み、時間を浪費してしまうことが恐ろしくなってきて「元気元気元気。僕は元気です」と宣言して病まんとすることをやめた。
病んでいる状態。それも病む気満々で病んでいる時。それはとても心地よくもあります。被害者意識みたいなものを漠然と抱えて眠りこけるような感じ。冬の廊下の先の方みたいなところにある、頭の整理された箇所では、自分に非があることなんて十二分に承知しているわけだけれど、もう病んでいる時はそういうのを見ないようにしている。寒くてたまらないから、背を向けて毛布にくるまっている。
毛布の暗闇の中にいても、社会と川とモノと風と寿司は淀みなく回っている。
で、もう病むのもいいや。飽きたし。
そういうことで満身創痍な僕は、自分にケアルガを唱える必要がある。精神的なケアルガだ。
でも僕は白魔道士でも吟遊詩人でもないので、現代における僕の現実的な回復手段について記す。
散歩
僕は歩く。徒然な日。
近くの小汚い湖を囲む公園の遊歩道を歩く。
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猫人(ねこじん)。
そこに鎮座DOPENESSしている猫人は僕を癒してくれます。
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僕もこうなりたいなと思うわけだが、猫人にも猫人なりの困難みたいなものがあるはずだ。いや、僕よりずっと苦労しているだろう。
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猫人は人人(ひとじん)に慣れているみたいだった。耳は切れていた。反出生主義のマーク。
鑑賞
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普段座っているデスクを眺めると、好きなものばかりで構成されていることに気づく。例えばパイプユニッシュとか。
その空間でこれを観る。
兎角、精神的に疲弊していたりする時には小林賢太郎を観る。落ち着く。
特にこのタングラムの壁は滲みるものがある。
小林賢太郎の作品は僕を本当によく癒してくれた。去年の夏頃もひどく心を病んで、ほとんど寝たきりで小林賢太郎を観ていた記憶がある。その頃のことを考えれば今の状態なんて随分マシなものに思えてきた。コンテンツはそのコンテンツを鑑賞したときの記憶みたいなものと個人の中で有機的に結びつく。音楽もそうだ。
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くるり「thaw」はすごく良い。僕の温度とよく順応する。ジャケットからなにまで全部良い。
この時期はくるりの最盛期だと勝手に思っている。旬だ。
僕は僕の好きなものによって満たされ、自己を修復していく。それらを生み出したクリエイターたちに深い感謝の念を贈りたい。
彼らのおかげで僕は多少孤独であってもなんとかやっていけるのだ。
孤独でもよいとは言わないけれど、孤独であることは決して悪いことではない。ほんとうに。