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【日記】僕は文章が下手だ 2022.6.18

以前の記事における私の言葉について、誤解を受けているようなのでいくらか説明を加えてみることにする。


まず、記事において用いた「フォロワーの質」という言葉についてのニュアンスをより明確なものにしておく。
僕にとっては言うまでもないことではあったのだが、ここにおける「フォロワー」とはTwitterを利用し私をフォローしている各人のことでありながらも、同時に彼ら個人のことを指したものではない。
この「フォロワー」はあくまで僕の視点から見た各個人である。

フォロワーは僕とある種のかなり簡素な契約みたいなものを交わした所属者みたいなものだ。それは人間という個人のほんとうに一側面の部分でしかない。

便宜上、仰々しい喩えを用いたが、以下の文章によってそのニュアンスはより理解しやすいものになると思う。

僕のフォロワーである個人――ここではワタナベくんとしよう――は、僕のフォロワーであることは確かだが、件の記事での「フォロワーの質」とは僕に対してどのくらい興味や親交があるのかという指標である。
つまりは無論ながら僕はワタナベくんの質が低い、と言っているわけではない。ワタナベくんが性格が悪いとかばかだとか、そういうことを言いたいわけではない。

質問者は「僕に興味を持たないのはワタナベくんにセンスがないからだ」と僕が思っているとでも感じたのだろうか。僕にはそういう外部要因に縋るような心づもりはないし、記事内においても僕にすべての非があることは示している。
したがって、「あなたの質が低いから人がこない」という言葉に誤りはない。記事ではまさしくそのことを言っていたのだから。

僕が言っているのはフォロワーというものには社交辞令的要素が含まれているために形骸化しがちであり、そのために自身の発信したものが「なんかよくわかんないもの」としてスクロールされていってしまうということである。
でも形骸化していないフォロワーというものも勿論存在するし、僕は形骸化しているか否かの割合についての話をしていたのである。
それについて説明する際に「質」という単語はその割合の指標というニュアンスを示すものとして機能している。つまりそれが「フォロワーの質」だ。

具体例を示しながら以前の記事においても説明をしたのだが、どうにも各人のリテラシーによっては誤解を招くようである。

「フォロワーの質」という言葉は題で用いるには少しセンセーショナルなものだったのかもしれない。

ただ読み手として癖づけておきたいのは世にある様々なコンテンツのタイトルに用いられる語というものは、語を目にした際に頭に生じるニュアンスとは幾らか遊離した、限定的ニュアンスを含むものが多いということだ。

僕自身、YouTubeの誇大したサムネイルや表現は好きではないし、記事においてもその種類の表現を用いることは好むところでない。


幸いなことがあるとすればそれは僕に人気がまったくないということだろう。

人気がないから六時間前に送られてきた質問に答える記事を書くだけの余裕がある。

存外、自分の質が低いというのも悪いことではないのかもしれない。


まあつまるところは「がんばってこ!(^○^)/」ということだ。

インターネットにおける関係性というものが、
見ようと思えば見ることができるし、見ていなくてもそのことが露骨に明示されることはないという都合の良いマジックミラーのようなものが各人を囲っているというその性質のために別種の孤独感を人にあたえるということを再三述べてきた。

それを経た上での「がんばってこ!(^○^)/」なので、幾分か強度が異なる。

人間が精神衛生を維持するための逃避としての不遇意識を抹殺するために、僕は上のようなことを自身に言い聞かせるようにして書いてきたのだ。
僕は元より逃避しやすい性格だから、責任の所在を自らの説明により明確にしたかったのである。

この話は自意識の問題にまで発展する根の深いものである。それについても散々考えてきたけれど、愚直に宣伝する人は偉いという結論に至った。手段は各人のモラールに委ねられる。ある場合にはバズったツイートにツリーをつけたり、ある場合は読んでもいない記事をいいねして回る。前者は許されるが後者は僕の規範から外れてしまうだろう。


話はここで終わって日記らしいことを書く。

昼までテラリアをしてしまった。
結構進めたけど、以前にも言った「冷め」が来ているのでとてもげっそりしている。

なんだか色々見ていたらほとんどのものが信頼できなくなってきた。

僕とてやはり人間なのであって、普通にネガティブな意見には凹む。
一通り考えれば反論なんてすぐに思いつく。
それでも精神がその非難に対して臨戦態勢の構えを取ってしまっているので、とても疲れる。
意見や事象を「ただ、それ」として認知し、それらから喚起される感覚を排除して捉えていくという「感情処理システム」はある程度僕にも備わっていると思う。でも僕は感情処理はせずに、悲嘆に暮れていることが多い。ちょっと腹に力を入れる程度の気力で無駄な感情と向き合わずに済むのだが、あまりそれをしようと思えない。無意識的に僕は悲劇のヒロインのような立場を得ようとしてしまっているのかもしれない。悲しそうにしている方が人には構ってもらえるだろう。精神状態の宣伝だ。
あと、感情処理システムによっては完璧にそれらを除くことが出来ずに残留物が沈殿して固着していくから、それを避けようとしているところもあるかもしれない。

因みに「感情処理システム」という造語を用いたが、発案者は僕ではなく村上春樹だ。


さて、今日僕はかなり精神的に疲弊したと思う。
何も信頼できなくなってきてしまった。孤独にも程度があるが、本格的に孤独を愛し、その生活というものに慣れていかないことにはまずいことになる。さもなければ間違いなく狂うだろう。
僕はSNSの使い方が結構下手だと思う。
いや、かなりだろう。僕は見なくていいものまで見てしまう。見なくていいものである僕はその存在をかき消されているのに、僕は律儀に見たくないものを見ている。僕にしたって都合のいいマジックミラーをうまく使っていけばいいのに、どうにも使い方が下手らしい。

結局日記らしくならなかった。

僕は自らを卑下するとき、本気で卑下している。生半可な卑下ではない。正真正銘の卑下だ。
本気で人々が自分のことを嘲笑っていると信じている。「実際にはそもそも無関心でそんな見てすらない笑」という指摘がしばしばあるが、それは違うと僕は思っている。無関心にせよ、「誰も読まれもしない日記また書いてるよこいつ」と一度は思われているだろうし、ミュートだってその時の蔑視からくるものである。嘲りが長期的か否かというのは本質的な問題ではなく、それが一度生じてから覆されるまで嘲りというものはその効力を発する。

暗渠に蓄積されていた塵芥を掻き出すような日記になってしまった。

僕ほぼ毎日この種類のことに考えを巡らせている。本当に無駄だな。

吐露しないままに死んでいくよりかは幾分かマシだろうか。

22時まで寝ていた。
単純にホラーな夢を見た。

どうにも、僕の文章が誤解を招きやすい粗悪なものであったらしい。僕は認めなくてはならない。
もうこれを認めてしまったら、僕には本当になにも秀でたものがないことになるけど、もう仕方がない。僕は読み手のリテラシーを見誤ったし、説明は不足していた。喩えによって示されたと思っていたニュアンスは十全には伝えられていなかったようだ。

かなり文章というものを書きたくなくなってしまった。陰鬱としている。僕が文章など書いたところで嘲りと共に石を投げつけられるだけだ。

終わりでは立ち直って明日も頑張るぞ、とはどうにも事は運ばなさそうである。

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