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【日記】カテゴライズの暴力──年森瑛氏「N/A」を読んで── 2022.5.24

鼻炎がいつもの酷い時よりも更に酷いような状態なので短めに。

文學界(2022年5月号)に掲載され、文學界新人賞を受賞した作品である年森瑛氏「N/A」を読んだ。

各自で実際に読んでみてほしいものなので細かなあらすじについては割愛するんだけど、
人とのコミュニケーションを効率的乃至円滑にするために、定められた常識的な振る舞いやマイノリティのカテゴライズなどの類型的なものに縋ってしまうことで、個人を見つめて対話するという機会を失い人が傷ついていくという様をリアルに描写しており、小説の持ちうる訴求力が存分に発揮されているように感じられた。

語り手の姿勢は周囲の人間よりも達観したようなところがあり、周りの人々が語り手に対して類型に当てはめて会話をしたり、テンプレートな振る舞い、言葉選びをしたりする様を批判的に描写する。

検索エンジンに対話相手の身分や状況を入力してかける言葉や分類を探すという描写がたびたびなされるが、これは人々がコミュニケーションのかたちをインターネットという社会の総体が持つ正しい「とされている」常識や規範に則っていることを端的に示している。社会で共有されている粗い網目でのカテゴライズとそれに対するリアクションを借用する行為が、対話相手の存在を抽象化している。

現代テクノロジーやその名称を取り入れた令和的小説「N/A」は今日が抱えている問題を直接的に明示している。

なんだか、僕のこの感想文にしても紋切り型なものにさえ感じられてくる。もちろん僕個人の内から発せられる感想であることには間違いないわけだけれど、そこには小説を評価する時の耳障りのいい言葉選びみたいなものが見え透いているようにも思えてくる。人間には社会規範みたいなものは強く植え付けられているわけだから、それを覆していく必要がある。重たい植木鉢みたいなそれをひっくり返してみないことには始まらない気もする。

そのためになによりも大事なのは当事者意識だ。読者は小説とリアルとを半透明の壁で隔ててはならない。両者は世界が異なるだけであり、それらは帰納と演繹の関係にある。

語り手はプラトニックな関係というものを強く希求していた。僕は実際に語り手のような考えを持つ人を何人も見てきたし、それは実際僕にとってもほんとうに良きものに思える。
必要なのは徹底して相手を見つめた上での対話に尽きるのではないだろうか。


鼻炎がかなりきついのでここまで。
たかが鼻炎でと思われることもしばしばだがこの症状は本当に最悪なのだ。この辛さを共に感じろとは言わないが、そこには理解しようとする姿勢と純粋で無償の手助けが求められる。
あらゆる流血について理解を深めることが社会全体の課題であるように思う。

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