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書くという営みを否定される筋合いはない

なんかありがちなタイトルだな~って思ったでしょう。僕も思います

でもちょっと違うんですよ。もう少し踏み込んで考えてみたのでよければ読んでいってください。お願いします。


1.物を書く恥ずかしさ


noteで文章を書いてなにか提示するという営みは、人によってはできないことだったりする。

それは物を書くという行為自体に、一種の難解さや羞恥が伴うと感じている
ためであると推察される。

あまり普段文章を書くような習慣がないからなにか書けと言われてもうまく書けなかったり、題材が決定できなかったりなどしてnoteなどやろうとすら思わないという人々がたくさんいると思う。

そこに羞恥心まで加わることによって、書き手は更に減少する。

実際、なにか書いて発表するというのはかなり恥ずかしいことだ。わざわざ個別に記事として文章をまとめてなにかを述べるということは、恥ずかしい。日記を100日以上書いていても尚、たまに恥ずかしくなる。やめようかなとも思うくらいだ。

なぜ恥ずかしいと感じるのかは、人によって違うこともあるし、理由が複合的である場合もある。例えば僕だと、毎日1000字以上書いてるけど全然伸びてなくて既存のフォロワー等から白い目で見られてるんじゃないか、いやそもそも読まれてないから目すら向けられてないのか、とか考えてしまって恥ずかしくなる。「なにマジになって書いちゃってんの?笑」という冷笑的な視線を受けるのを妄想してしまう。

クラスの端っこの席でポエムを書いているのがバレたときみたいな気分と同じだ。イタイ イタイ それポエム? イタイ イタイ いやnote だ。

でもイタくて結構、と言って一定の人々はなにか書いている。日記やエッセイ、小説や詩、短歌。様式はいろいろあるけど、いずれも学校で書いていたらちょっと笑われる代物だ。仮にそれがなにかの賞を獲るに値するものであったとしても嘲りの対象となる。


2.物書きの意志を差し置いてお前がうんこを止める筋合いはない


「ではお前は、私たちの書いている物がなにか崇高なものであるのだから書くことに自信を持てと言いたいのですか?」
と聞かれるかもしれないが、それも違う。

僕含め、あらゆるアマチュアの物書きたちの成果である文章たちは、まったくもって愚にもつかない種類のものであることが多いと考えられます。

その文章は面白くないかもしれない、陳腐かもしれない、破綻しているかもしれない、表現が稚拙かもしれない、美しくないかもしれない。

でもだからと言って、それらを書くことを誰からも否定される筋合いなどないはずだ。人にあまり読まれもしないようなものを――僕の口から言わせれば文字で形成された糞を――作り出してインターネットの海に流しても別に構わないはずだ。

仮に生み出したものが糞であったとしても、それを生み出す際に書き手はそれ相応の労力をかけている。赤子を生む心持ちと体力をもってして、糞を捻り出している。

頑張って生み出したのにそれが大便で、誰にも見られないなんてことは往々にしてある。僕たちはその糞の集積を前にして悔し涙を流すことだってある。

けれども、その様を他人から馬鹿にされる筋合いはないのだ。どんなかたちであれ僕たちは僕たちなりのかたちで頑張ってなにかしているわけで、これまで作ってきたものが偶々うんこだっただけのことだ。

うんこ製造業従事者を讃えろとは言わない。ただ彼らの営為を「全くの無駄だ」とか「やめたほうがいい」とか、そのような否定の言葉を送ることはありがた迷惑だということだ。

人によってなにかを書く理由というのは異なっていて、大別すれば書くという営みによる充足感と、それを読んでもらうことによる充足感とに分けられると思う。そしてその比率が人によって異なっていて、各人が書くという営みに個別な色合いの目的意識を持っている。

閲覧数を増やしたいといった目的意識が薄いひとにとっては書くこと自体に楽しみを見出す比率が高いから、否定的な言葉はお門違いなものになる。

では書くことによって反応がほしい、読まれたいという意識が強い人に否定の言葉は刺さるものなのかというと、それもまた違う気がしている。

なぜ、否定してくる人たちは書き手のことを否定するのか。

それは思うに、書き手の成果物に欠点があったり、その様式自体が伸びない種類のものであるなどの指摘があるためだと思う。

つまりは伸びたいならそういう書き方をやめろ、という指摘になる。


この否定は真っ当なものにも思えるが、必ずしも正しいことではないと僕は感じている。

例えば、日記という形式は無名のやつがやったってウケないからさっさとやめてしまえ、自分語りはウケないぞと言われたりする。

日記という形式がウケにくいというのは確かにそうだろう。日記と一口に言ってもその性質は様々であるわけだが、自分のことに引き付けた文章の場合には確かに「お前のことなんかしらねえよ」となるかもしれない。

でも考えてみてほしい。そもそも本当に閲覧数を伸ばしたいといった目的意識が強い場合には、自分語りなんて好んでしないのではないだろうか。つまりは伸びたいという意識よりも、自分の書きたい内容のこだわりが強いために自分語り的な日記を書いているのではないのか。


端的に言えば
「おいら、たくさんの人に読んでほしい気持ちもかなりあるんだけど、同時にこの日記という形で書くのが好きだからこれをやめるなんてできねえ!」という強欲な心は普通に成立するのだ。

なのでその形式をやめろ、書くなと言われても、困るのだ。自分の書くという営みを他者によって否定され、人気のために捻じ曲げることはちょっとできないのだ。

もしかすると、伸びたい意識がより強く、こだわりを捨てることも辞さない人もいるかもしれない。そういう人には否定が有効にはたらくこともあるかもしれないが、ただあまり軽率に否定をしてはならない。その意識の程度は簡単に推し量ることはできないし、十分なコミュニケーションを経て初めて提案されるものが「否定」を孕んだアドバイスなのだ。


なにか書いている人――より抽象化するとあらゆる創作を行っている人――は、その営みにどのような意味性を見出し、どの程度継続していくのかといった判断を自身で下すべきだ。

僕は日記を100日以上継続しているのだが、もうめちゃくちゃに鋭利な言葉によって突き刺されることもある。本当にあるんですよ。人の子じゃないだろって言葉を送られる。お前は人気者になれないから憧れ抱くなとか、面白くないとか、たくさん受けた。

僕の日記を取り巻くサイクルは
書く→伸びない!&罵倒→苦しい→でも書く

といった感じで、苦しみながら日記の継続をするか否か判断し、今日まで続けている。

ぶっちゃけめちゃくちゃ苦しんできたから、僕は日記なんて書くべきじゃないとさえ言っていた。でもやめろとは言わないし、やろうとしている人を本気で止めるような気はない。やりたいなら、やるべきだ。


3.総括


僕が本稿で指摘しているのは、安易に否定したりするようなことはちょっとよしてほしいということだ。僕がここまで熱心に書く営みへの否定にある種の憤慨を見せているのは、実際に特定の書く営みを否定するようなツイートを目にしたためだ。それに付随するようにして、これまでに言われてきたことまでもが記憶に蘇ってきて書かずにはいられなくなった。

書く営みを否定するのであれば、否定する対象がどのような意志の元に物を書いているのかを確かめ、こだわりを大きく歪めない程度の変更先となる書き方の型を提示するべきだ。書くことやその文章たちをまったく意味のないもの、無駄だと糾弾するのは暴力的だ。


書くという営みとその結果生み出される文章は、各人によって意味づけられる。多くの読み手はその文章に、なんの意味性も見出さないかもしれない。糞の役にも立たないと思うかもしれない。でも書いた本人や一部の人がその文章になにか意味を感じることができるのであれば、それでいいはずだ。

それを暴力的に否定する筋合いはやはり誰にもない。「もっとこうすればうまくやれるのに」というような指摘であっても、そのこだわりはどうしたって捨てられないものであるのかもしれない。こだわりを打ち捨てるか否かは個人の裁量によるものである。

書いている本人が本当にそのスタイルを変更してより読まれたいという、こだわりを少しだけ捨てるような覚悟を持ったとき、その人は初めて否定に耳を傾ける能動的な姿勢を見せる。そのような姿勢をとった人に、否定していた人の中でもアドバイスを携えた人たちが助言をするべきなのだ。


日記はあまり伸びない。でも日記や自分語りを交えた文章でないことには伝えられない種類の物事というのは存在するし、自分語りの濃度が高くなることによって生じる当事者意識や語りの熱みたいなものが文章には込められる。

鼻息の荒く手が汗で濡れていそうな文章を書いているのはやはり恥ずかしい。でもイタくて結構。僕はそれを、もうずっと前に通過した。
人によってはありがちな非差別的な位置にいる人間の叫びのように聞こえてしまったのではないかというような懸念もあるが、創作的な営為を経た人には本稿の主旨が通じていることを祈っている。


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