2023年というものへの感想
2023年。
2023という数字が、なんだか妙にしっくりきた。2022は、なんだか変にゾロ目で、気持ちが悪かった。2023には、自然な美しさがある。2023年を生きているとき、カレンダーに2023年と記載されていることを、疑うことなく過ごすことができた気がする。
注意⚠️
多くの人々は、目の前に提示された文章の語り手は正しい存在であると勘違いしがちです。でも実際は違います。愚かな語り手もいます。そしてその愚かさには二つのパターンがある。ひとつは単に語り手に思い込みや誤謬があるパターンで、もうひとつはその語り手の思い込みや誤謬を意図して書き手が書いているパターンです。
僕は過去から現在にかけての自身の思考を書いています。ですから、そこに思考の偏りや間違いがあっても、怒りの感情を覚えることはしない方がいいかもしれません。
僕はよくわからない工場の点検をする派遣会社の内定をぎりぎりで蹴り、これから無職かと思っていたら幸いと言うべきか、図書館で勤めることになった。司書資格なんて取りたくない、金の無駄だと喚いていたが、皮肉なものだった。
図書館での仕事は、人が想像するよりも面倒で、身体を使い、余裕もなく、理不尽で、人間が面倒だが、それほど僕にとって苦ではなかった。
人間に興味がなかったし、やり甲斐にも興味がなかったし、薄給であることについても特に不満はなかった。
無心でタイピングをしてCDのデータ入力ができるときなんかは、天職とも思った。
就職して二三ヶ月目の頃に所謂悪質クレーマーに遭遇して、その数日はモヤモヤしていたが、次第にどうでもよくなった。図書館には度々迷惑な人々がやってくる。上司は「客層の悪さに驚くでしょ」と言う。僕は首肯する。
僕はとんまなので、たくさんミスをし、たくさん迷惑をかけ、たくさん遅刻したが、激しく怒られることは無かった。職場の人間については恵まれていると感じた。
それでも職場には嫌われる人間というのがいる。嫌われるというか、客観的に見ても些か問題のある人で、扱いに困ると言った感じだった。彼はトイレの後に手を洗わないから、僕はドアの窓ガラスの嵌められた箇所の微妙な段差に手を引っ掛けてドアを開ける必要があった。
仕事は週3.5日。一般的な新卒に比べると労働時間は短く、残業もない。
これは幸福な事だと思う。親の脛を齧りつつ、一応は働いているという状態は幸福である。大学卒業後、無理やりに延長されたモラトリアムのようなものだ。正直、働いているという実感は乏しい。
では時間を自由に使えているかというと、それはちょっと微妙な気がしている。
正直自分のために使えているかと考えると、本当に微妙だ。
僕はできれば、このギリギリのモラトリアムのような期間を有意義に使わないといけないんだと思う。こういう機会はあまりない。社会規範の基に、僕は週五の一般的な勤労を強制されるはずだからである。
だが、自分のために時間を使うことが出来ていないし、そもそも何をやるべきなのかもわかっていない。大学では論文を楽しく書いたけど、特に何にも繋がっていない。卒論を学校の機関誌に載せることになっているくらいで、飯の種にはならない。文才もないし、自分の書くものに価値も感じないから、小説の賞に応募する気も起きない。
ゲームばかりしていたけど、ゲームもひとつも上手くできない。
絵もダメで、酷く描くのが遅く、成長も同様に遅く、途中でやめてしまう。こんなカスに幾ら加筆しようとカスだと思うし、それは間違っていないと思う。描ききれないのは、描くのに必要な具体的知識が不足していて、形にさえできないために、完成させられない。
僕は無闇に時間を消費してしまう癖がある。ディスプレイを前に一日中手を動かすこと自体は苦じゃないし、得意だと思う。そうすることによって得られるものも幾らかはあると思う。
けれども、僕はそれをやったところでまるで成果が得られなかった。TFTのランクはプラチナだしスト6のMRは1100だし絵は下手で伸びもせず最近はほとんど完成させられていない。
この一年、僕はまるで成果を得られなかったと感じている。少なくとも僕は満足していない。TFTは一応結構前からやっていたし、スト6は5をやっていたし、絵も大学の途中からやっていた。
それにしては、成果がなさすぎる。
嘆いていてもしょうがないのはわかっているので、兎に角成果が出なかったということをここに記しておく。
あまり言いたくはないが、心身に幾らかハンディキャップを抱えていると感じざるを得ないこれまでの人生を考えると、こういった趣味の部分で頑張れることができたら良かったと思うのだが、やはりそう都合の良いものでもないのだなと感じる。
対策を考えよう。
座学が足りないのかな。もっと座学に集中しようかな。ダメな方法で何度手を動かしてもダメなものはダメだ。常に変化させないといけない。変化させるためには上手いことやってる人を見ないといけない。ぼんやり見るだけではダメで、精緻に観察しなくてはならない。格ゲーのリプレイも、何度も巻き戻して見る。片手間ではなく、それを見ることにだけ集中する。それをしよう。
・無闇に手を動かさない
・お手本をじっくり見る
無闇に長時間手を動かしてゴミ──下手な絵、敗北──を生成するのは辛いので、僕は「見」に回ります。
そう、矢木のように。
瀬戸に電流走れ。