【日記】能動的読解 2022.7.18
今日は午後8時に起きて、そこから特になにもしないまま、午前6時を迎えようとしている。ゲームは一分もしていない。僕はどうもここ最近、ゲームをやりたいという欲求が消えつつあるらしい。
小説を書いている。
こんな言い方は本当に良くないが、僕は自分の小説を、ネットに投稿されている多くの小説というかたちを取ったものよりも少しは意味性のあるものを書いているという自負がある。
ネットに投稿されるものの多くはアマチュアによるものであるし、そのカテゴリーも様々であるから致し方ないところではあるのだが、僕の書いたものがそういう種類のものと同一視され、雑多にカテゴライズされることにはちょっと我慢ならない。
なんとも子供っぽい主張ではあるが、エンタメをするにしてもそれはちょっとどうなんだ、という感想を持ってしまうような作品が多いのは事実であり、そのこともあって僕の創作的な営みは幾らか阻害されてしまった面もあるかもしれない。
また他責か、と呆れられそうだが、それでも僕は創作というのをやってきたので、ちょっと苦労したというだけの話だ。多かれ少なかれみなさんにも経験のあることなのではないだろうか。自分のやりたいことが世間の風潮によって遮られるという事象は珍しいことではない。
小説を書くというのは微塵も偉いことではない。賞を獲るなどの結果が出て初めてその営みは世間に肯定されるようになる。それまでは妄想をワードプロセッサーに打ち込む気狂いだ。
文学的解釈の基盤というものは、あまり世の人に身についていないらしい。名作とされている日本の近代文学にしたって、それを読んでいる人も少なければ、読んだことがあったとしてもそれのどこがよかったのか、どこに文学性があるのかなんて答えられない。
だから僕の創作の文学性を見出だせないお前らが悪いのだ!と言いたいわけではない。言いたいわけではないのだ。言わないよ絶対。
その持て余した文学的な熱量を、文学賞は受け止めてくれる。現代の作家たちはその衝動によって生み出された傑作と駄作を読み甲乙つけてくれるのだ。だから問題ない。
ただ僕がひとつ疑問に思うのは、若者に本を読めと宣う大人たちは読書の姿勢や手引についての説明を放棄しているように思えてならないのだ。
読書を推し進めるのであればその手筈についていくらか説明する義務があるように思える。文字が読めて言葉を理解できても、そこから抽出される書き手の思想や描いている観念というものを読み取ることはできない。
読書に能動的な側面があるということは間違いないことだと僕は思う。
さらばだ。